2008年のベスト(2/2)

 ということで,2008年のベスト,後半戦は音楽関連と展覧会部門です。
 
[CD部門]
 
Annekei "TSUKI"
Annekei 2007年の作品なんですが,2008年に入ってからいっそう気に入ってしまったのでした。 恐らく,2008年に最もよく聴いたCDでしょう。 とにかく1曲目から清潔感あふれる美しさに,すっかりトリコです。(^^) アクがなさ過ぎて物足りない人もいるのかもしれませんが,今の僕は,こういうのがいいみたいです ……というか,2007年の Alison Krauss といい,これといい,このところ,「綺麗な音楽を,きちんと綺麗に表現する」ということに自分の関心が向かっているのを感じます。 同時に,何の反動か,アコースティックな音に嗜好の揺り戻しがきているのかな?と自己分析したりしてるのでした。

Marcin Wasilewski Trio "JANUARY"
Marcin_wasilewski_trio たまたま塔盤屋の試聴コーナーで見つけて買ったんですが,これもよく聴きました。 これまた美しい作品です。 幻想的な風景をイメージさせながら,時に自己の内面に沈み込んでいくような静かな緊張感が漂います。
 ECMやらヨーロッパのジャズやらをあまり聴いてないので,ひょっとしたらこういう方向性の作品は珍しくないのかもしれないんですが,もしそうだとしたら,そっち方面に詳しい方に,ぜひ推薦盤を教えていただきたい……と思う今日この頃です。

 
[ライヴ部門]
 
The Brand New Heavies (at Billboard Live)
 2008年はあんまりライヴに行かなかったような気がします。 もちろん,Tower Of Power の 40周年記念ライヴは素晴らしかったんですが(いつも最終日あたりには疲れが見える Larry Braggs (vo) も,今年は元気だったし),毎年 Tower ばかり挙げるのもなんなので,今年は The Brand New Heavies (BNH) を挙げときます。(でも一応書いておくと,Tower Of Powerのライヴは,だまされたと思ってでも何でもいいから,みんなぜひ1度観にいって欲しい!と思います。)
 そういうのをやるバンドをやっておきながら,N'Dea Davenport (vo) がいる BNH を観たことがなかったので,とりあえず行っとこうか……ってな感じで見に行ったんですが,……いや〜〜,やっぱり彼女が加わると違いますね。 楽しいライヴでした。
 こういうと誤解を招くかもしれないけど,N'Dea Davenportって,決して「圧倒的な歌唱力を持った歌姫」みたいな存在ではないように思うわけですが,しかし,なぜか魅力的なんですね。 なにか「高揚感」みたいなものを感じさせる存在で,目が離せない……というわけで,ずっと彼女ばかり追ってしまいました。 で,またまた暴言を吐いてしまえば,演奏面において BNH は決して「めちゃめちゃ上手い」という印象は受けないバンドなんですが,N'Dea Davenportとの組み合わせだと,いい化学反応みたいなものが起きるように思います。 このままこの組み合わせが続いてくれるといいんですが。
 
 
[展覧会部門]
 
ヴィルヘルム・ハンマースホイ展(国立西洋美術館)
 2008年に観た展覧会では,やっぱりヴィルヘルム・ハンマースホイ展が良かったな〜と思います。 これについては以前書いたので,詳しいことはそちらを見てほしいんですが,CD部門のほうで挙げた Marcin Wasilewski Trio "JANUARY" といい,ハンマースホイ展といい,2008年は大げさに言えば「静けさの中にある美」みたいなものに価値を感じた1年ではありました。
 ハンマースホイ展以外だと,フェルメール展も予想以上に楽しめました。 フェルメールについては,以前1点だけを目玉にした展覧会がありましたが,そのときはあんまりじっくり観させてもらえないやりかただったので,正直「………」という感じでした。 でも,(それが不評だったからかどうかは知りませんが)今回は点数も増えて,わりとじっくり観ることができたので,良かったですね。 ……展覧会は自分の間(ま)で観たいものです。 混雑してるときは仕方ないのかもしれないけど,「ハイハイ,立ち止まらないでください」みたいな見せかたはカンベンしてほしいですからね〜。
 
 



 ということで,2009年も楽しい出会いがあるよう,アンテナを張っていこうと思うのでした。 みなさま,今年もよろしく。

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ヴィルヘルム・ハンマースホイ展

 で,先週の3連休に行ったものの1つが,国立西洋美術館の「ヴィルヘルム・ハンマースホイ展」です。
 
 なにやら,けっこう混んでいるという情報をキャッチしていたんですが,そのとおり,入場時の待ち時間こそなかったものの,か〜な〜り混んでました。 僕はハンマースホイって全然知らなかったんですが,実は有名なのかな?
 
 で,感想ですが,……いや〜〜,行ってよかったです。 久々に充実感ある展覧会でした。
 
 展示作品の多くは,ハンマースホイの妻イーダの後ろ姿だけ,または誰もいなくなった室内を,抑制した色づかいで描いたもので,似たようなモチーフの作品がこれでもかと繰り返されます。 しかし,僕は,飽きるどころか,すっかり魅せられてしまいました。
Hammershoi 感じ方は人それぞれでしょうが,僕にとって衝撃的だったのは,それらの作品が示す(ように僕には感じられた)「徹底的に“音のない”世界」でした。 絵なのに音のことを言うのは変かもしれませんが,絵の中にみなぎる緊張感というか,ある種の濃密な空気感は,静寂と分かちがたく結びついています(少なくとも,僕にとってはそうでした)。 中にはピアノを弾いている場面(これも後ろ姿)を描いた絵もありますが,その作品においても,そのピアノが世界にある唯一の音であり,その音をやはり濃い沈黙が覆っています。 で,その世界の外から観ているはずの我々も,なぜか絵の中の静寂に引きずり込まれてしまうのでした。
 
 途中に紹介されていた同時代の他の画家による作品と比べると,そういった特徴はより鮮明です(その意味では,展示の構成も良かったかも)。 他の画家たちの作品においては,同じように室内における静かな瞬間を切り取っていても,その前後には人々の(音を伴った)日常が想起されるのに対して,ハンマースホイの作品にはそれさえもありません。 動く人間がいない。 音がない。 風もない。 部屋の中にあるのはひたすら濃密な沈黙だけです。
 
 会場の解説には,作品の特徴を表わすために「廃墟」という言葉が使われていて,言われてみれば,近い感じの言葉を探すとそれに突き当たるのかもしれないけれど,個人的にはちょっと違うように思えたのも確かです。 「廃墟」というとどうも「歳月を経て朽ち果てた」ようなニュアンスが感じられますが,目の前の作品はそうではない。 つい最近まで人間の活動があった痕跡はしっかり描かれていて,でも人間的なぬくもりのようなものは既になく,しかもそれらは永遠に失われたような感じ,というか……。 別の言い方をすると,突然自分が人類最後のひとりになってしまって,人間の消えた建物の中に立っている感じ,というか……。 長い人工冬眠から覚めたら,そこは誰もいない世界だった……というとSF的ですが。
 
 これはとにかく,観にいって体験して欲しい……という感じです。 ただ,周りのカップルなんかは少々困惑気味だったのも確かなので(2人で楽しく会話しながら観る,というタイプの作品ではないということでしょう),カップル向きではないかもしれません。
 
 来週末(12/07)で終わりなので,行こうというかたはお早めに。 けっこう混むので,混雑しそうな時間を避けるほうがいいかもしれません。

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数の認識は根源的なものか?

 スラッシュドット・ジャパン話題になったのでご存知の方もいるでしょうが,Science 誌の Science Express 2004 年 8 月 19 日付で Peter Gordon "Numerical Cognition Without Words: Evidence from Amazonia" という論文が紹介されています。 間もなく紙媒体の Science 誌にも出るのでしょうが,スラッシュドット・ジャパン経由で preprintらしきものが入手できたので,紹介します。
 普段この手の文献に接することがほとんどない門外漢がこういうことを言うのも気が引けるのですが,正直な感想を言うと,論文自体はそれほどレベルの高いものとは思えず,この内容から何らかの確度の高い結論が導けるとは思えません。 しかし,論文の主旨以上に,人類学・民俗学的な興味を掻き立てられる面があり,当初,僕が興味をひかれたのも主にそういう点でした:


 ブラジルのアマゾンに住むピラハー族(Piraha tribe; 元の綴りでは ha の a の上に 〜 が付いてます)は,ブラジルの主流の文化に同化することを拒否し,狩猟・採集の生活を続けている総人口 200 人足らずの人々で,彼らの言語はピラハー語と呼ばれます。
 ピラハー語の「数」の表わし方は,僕たちのような十進法ではなく,かといって,一部の民族に見られる2進法的なものでもありません。 数を表わす単語としては,“だいたい1” にあたる「イ」(ホを高くして,下がってくるように発音),“だいたい2” にあたる「ホ」(イを高くして,ずり上げるように発音),“たくさん” に対応する「バアギ」および「アイバイ」があるだけなのだそうです。 これは,言ってみれば「1つ,2つ,いっぱい」みたいな感じに見えますが,実はそうですらありません。 上で “だいたい1” などと書いているのは,(この文献によると)これらが正確な「数」に対応しているのではないらしいという意味で,これらの単語は,1, 2, ・・・ のような「数」に対応する言葉(数詞)ではなく,あくまでそれに近いものでしかないのだそうです。 英語でこれに似た使われ方をする言葉として,著者の Gordon さん(コロンビア大学(行動学))は,"a couple of 〜" という言い方を挙げています。 "couple" は本来「2」に対応すべき言葉のはずですが,誰かに "a couple of ××" を持ってきてくれと頼んで,(2つではなく)3つや4つの××を持って来られても,特に「不正確だ」とは思われない・・・というわけで,そのようなラフな内容を示す言葉として,例えば「イ」は「1を典型とする少ない数」を表わすというふうに理解されます。 要するに,ピラハー語には,1つ2つ3つ・・・と数を順に数えるときに使うべき言葉がないということになるわけです。

 ところで,余談ですが,ピラハー語は,現在知られている世界の言語の中で,基本となる音素の数が最も少ないものの1つだそうです。 ちなみに,一番多い言語はアフリカにあり,日本語は比較的音素の少ない方に属します。 植民地的な支配の影響を除いて現地語だけを比較するなら,大まかに言って,アフリカを出発点に東に向かって音素の数が少なくなっていく(音素の点で言えば単純化していく)のだそうで,これは,人類がアフリカに登場してそこから世界に広まっていった道筋と符合するものと考えられています。(この辺の言語間の比較研究の状況については,例えば The IHT Online のこの記事などで解説されています。)

 このような言葉を持つピラハー族の人7人を被験者にして,魚の写真・棒・ナッツなどを使い,同数であるかを判定させるテスト実験(「マッチング課題」というらしい)を行ないました。 すると,判定する対象の数が3以上になると(対象物が何であっても)同数だと判定するのに苦労していた・・・のだそうです。 また,彼等の成績は,数が増加するに従って,より悪くなった(きれいな相関が見られる)とも報告されています。

 さて,この実験結果は何を意味するのか? Gordon さんは,ピラハー語には根本的に「(離散的な整数としての)数」の概念を示すものがなく,これは言語間が不整合(incommensurate)であることを示す例だと言います。 ここでいう「整合性」は「翻訳可能性」とでもいうべき意味で,言語Aの中の言葉を全て言語Bの言葉に置き換えることができること,対応する単語がない場合でも,言語Aの持つ任意の言葉を言語Bで説明可能であることを「整合性がある(commensurate)」状態と考えて,それが「ない」と言っているわけです。
 そこまでは「なるほど,そうかな」と思わせられるのですが,どうやら彼の主張の根幹は,そこから更に進んで,ピラハー族の人々には「数量の概念」そのものがなく,これは明らかに言語が思考を規定していること(linguistic determinism)を示しているのだ・・・ということのようで,ここまで来ると,「この実験でそこまで言っていいのかな?」とちょっと首を傾げてしまいます。 ピラハー族の被験者が実験で与えられた課題にまごついているという描写も加えて判断するに,彼らの文化に「数を数える」という部分が欠落しているというのはどうやら正しいように思えますが,それを,思考(ここでは,単純・複雑を問わず「脳内の情報処理の働き」を広い意味で「思考」と捉えている)が制限されていることに短絡的に結びつけていいのだろうか?

 この論文に対する反響は「今日の Nature」で既に採りあげられており,やはり賛否両論あるようです。 この反響記事では,前半で「ヒトはもともと数を認識する固有の能力を持っている」とする立場からのコメント,後半で「ヒトは,極少ない数を越えて数える固有の能力を欠いている」とする立場からのコメントが紹介されています。
 後者は,“数える” という観念はもともと人間にはなくて,言語も含めた文化の中で後天的に得られるのだという主張に繋がるように思えます。 この説に直接対応するものではなさそうですが,人間の短期記憶の容量はそれほど大きくないことを示す実験結果もあり,ここで紹介されている実験では,例えばカード上に並べられた有色の点の情報を記憶する能力について調べたようですが,初めて接する情報の場合,一瞬見せられるだけで記憶できるのはせいぜい4つくらいなのだそうです(孫引きによる情報なので,誤解しているかもしれません。 時間が出来たら原典をあたってみたいと思います。 なお,一般的な話としては,情報単位(chunk)にして7±2(=魔法の数7)が短期記憶の容量の上限と言われているようです(→例えば,海保博之教授(筑波大・認知心理学)による記事を参照))。 これらを結びつけると,“数える文化” のない状況では,2つの集合を見たときに構成要素の数が同じであるかどうかを判断するのは,扱う数がちょっと増えただけでとても困難な作業になるだろうと予想されるわけで,ピラハー族の実験はこのことを端的に示していると解釈されます。 実際,“数える文化” を持つ我々だって,例えば 20 個のものと 21 個のものをいきなり1秒間だけ見せられて,個数の違いをハッキリ認識できるかと言われれば,かなり自信がないわけで,“数える行為なしでは,違いが認識できる限界の個数はかなり小さくなる” と言われると,そうかもしれないと思ったりします。 ところが,ピラハー族の被験者も,対象物の集合を見せられる時間が短くなると成績が明らかに落ちていると報告されており,そうなると,今回の実験結果をもって「彼らは全く数えていない」と言い切って良いのか,どうもまだ疑問符がつくような気がします。
 この疑問符をますます大きくするのが,記事前半で,ヒトが「すべての数をイメージする固有で非言語的な能力を所有して」いると主張する研究者のコメントです。 彼は,ピラハー族の被験者は数を認識する能力がないのではなく,「一つのアイテムの量が正確に別のものと等しいという事が、単に認識出来ない(中略)『一致課題』に関して問題を抱えている」だけなのだという解釈を示していますが,上で述べた記事後半の考え方だって “ヒトはそもそも「一致課題」に関して問題を抱えている” ということに繋がっているようにも思えるわけで,両者はスタート地点が違うだけで,結局この実験については同じ解釈に至っているのではないか? …などと思えてきます。
 そうすると,結局,ピラハー族に対する今回の実験では,数の認識に関するこれらの説の可否に何がしかの明確な根拠を与えることは出来ないということになり,研究の価値としては,あまり大きなものではないと言わざるを得ません。

 なにしろ専門家でないため,使われている概念の定義があいまいなこともあって,考え始めるとだんだんわけが分からなくなって来るんですが,恐らく,今回の研究はこうした議論が再燃するきっかけにはなるものの,(はじめの方で書いたように)何らかの結論を与えるものではなく,その位置づけを正しく行なうには,細部まで論点を整理して更に検討を進めることが必要なのでしょう。


 冒頭でも書きましたが,門外漢の僕がこの研究に興味を感じた理由は,むしろ,人類学・民俗学的な面にありました。 科学・経済など,現代の人間の活動の極めて大きな部分が,“数を数える” ことの上に立脚していると思えるわけで,僕たちにとっては基本的と思えるこの営みを有していない人々や言語があるというのは,そのこと自体,驚異的なことです。 複数の魚の写真を見せられたときのピラハー族の人々の情報認識とは一体どのようなものなのでしょう。 言語と思考の問題についても,より説得力のある実験デザインを伴った研究が待たれます。 同時に,まだまだ世界は広い・・・人類の持つ多様性に改めて想いを馳せないではいられません。

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