最近読んだ記事

 まず,遅ればせながらですが,やはり,亡くなったアーサー・C・クラークのことに少しだけ触れておきたいと思います。
 僕はクラークの熱心な読者とはとても言えませんが,それでもやっぱり彼は巨人であったと思います。
 ただ,彼を筆頭に,SF作家のことがマスコミに載るときって,どうして「(その作家の書いた未来像が,現実と比べて)当たった/当たらなかった」という話ばかりになりがちなのでしょうか。 ぶっちゃけ,猛烈に違和感あります。 SF作家の仕事は未来を「言い当てる」ことではない ……そんなことは,名作と言われる作品をほんのちょっとでも読んだことがあれば分かると思うのに。
 クラークは,そのハードな作風のせいもあってか,「2001年 宇宙の旅」という年代を区切った名作を出したせいもあってか,更には実際にすばらしい実績があったせいもあってか,よく「彼の予言が実現した/しなかった」みたいなことを言われる作家ではありましたが,そのクラークにしても,生前,何かのインタビューで「SF作家は予言者ではない。 起こりうる可能性としての未来像(ヴィジョン)の1つを示しているだけだ。」というような趣旨のことを述べていたと記憶してます。
 「当たった/当たらない」なんかじゃなく,彼の遺してくれたファンタスティックな未来像の数々に,そして,あえて現実との関わりで言うなら,その描いた素晴らしいヴィジョンによって(この現実の世界の宇宙開発などにまで)力を与え続けてくれることに,敬意と感謝を捧げたい。 そう思います。
 



 さて,今日は新旧交えて3つばかり紹介します。
 
(1) フランス医療制度の危機ル・モンド・ディプロマティーク(日本語・電子版)
 医療の危機(崩壊)という問題も,最近はようやく医療従事者を叩くだけではない記事が見られるようになってきた印象があります。 ……といっても,主流は相変わらず「叩く系」ですけどね。
 正直なところ,僕は日本のことも良く分かってないので,ましてやフランスのことなどさっぱりですが,この記事を読む限り,フランスの医療政策も,やはり日本と類似の総額抑制の方向に動きつつあり,それがあちこちに歪みをもたらしているということのようです。 ただ,なんとなく,まだフランスのほうが危機といってもまだ余裕あるような気がしないでもありませんが。
 
(2) 一度は泊まってみたいデザイナーズホテル特集SPIRAL MARKET
 いや〜,これは「行ってみたい」欲求を刺激しますねー。 たまには,こういうのを見て旅妄想に浸るのも悪くないかも。
 
(3) ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 (Valentina Lisitsa (p))YouTube 「のだめカンタービレ」のドラマ化のおかげか,今の日本でクラシックというと,ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番かベートーベンの交響曲第7番か……ってな状況のようですね。 …って,これは前にも紹介した "S.Y.’s Blog" からの受け売りで,僕自身はクラシック界の動向のことは良く知らないんですが。
 で,同BLOG のこの記事経由で知った演奏です。 まあ正直なところオケには「ありゃりゃ?」みたいな面もあるんですが,とにかく全編を通じてドライヴ感(という言い方が適切かは異論あるでしょうが)あふれるピアノが素晴らしくて,クライマックスでは思い切り感動してしまいました。 YouTubeは画質も音質もヒドイもんですが(最近,高画質オプションができたようですね),そういうのを超えてくる感動ってあるよな〜,と改めて思ったり。
 僕も,ご他聞に漏れず「のだめカンタービレ」のおかげで,このところ久々にそういう方面の曲も聴いたりしてるわけですが(まったく,思うツボです(^^;),なにしろ,僕がこのジャンルを聴いてたのはずいぶん昔なので,聴きたくても手元に音源が全く残ってなくて参りました。 当時は,モノラルのラジカセで,しかもイヤホン(WALKMAN以降に普及した音のいいタイプじゃなくて,旧式の耳に突っ込むヤツ)で,FM放送をがんばって聴いたりしてたわけで,今にしてみれば「よくやってたもんだな〜」と思います。 そのころを考えると,mp3だと音質が劣化するなんてのは(←僕自身そう言ったりするけれど)ずいぶんとゼイタクな話であるわけで,ホント,いち音楽ファンとして技術の進歩に感謝すべきでしょう。

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かわいいだけがマスコットじゃない(?)

 みなさま,あけましておめでとうございました。(もう3月ですがな。)
 
 先日のライヴにご来場のみなさま,ありがとうございます。
 
 で,見事に2ヶ月の間この Blog を放置してしまっていたわけですが,とはいえ,まったく手をこまぬいていたわけではなく,これこのように,サイト・デザインのリニューアル作業に追われていたのでした。 というわけで,新年とともに(3月だけど)デザイン一新したので,たまには本家のほうものぞきに来てやってください。
 
 さて,今日はリハビリ代わりに軽い話題を。
 祝!帰国!! のS.Y.’s Blogこの記事でも採りあげられていますが:

マスコットキャラに何を求めるかは人それぞれなのかも知れませんが,個人的な感想を言えば,批判されるだけあって,なかなかにカワイクないですね〜。 もしかして,かわいらしさだけがマスコットキャラじゃないというアンチテーゼのつもりなのか? あるいは,イラストだと「?」だけど着ぐるみにしたら化けるとか?
 それにひきかえ,記事中でも引きあいに出されている彦根城築城400年祭ひこにゃんのほうは,確かにかわいい。 見ていて勝手に顔がほころんでしまふ(あくまで個人的意見です)
 
 まあ,僕の場合,奈良は好きだし,キャラ問題とはまったく関係なく,また訪れたい場所ではあります。 だから正直どうでもいい話題ではあるんですが,要するに,この記事をネタにひこにゃんにリンクを張りたかっただけなのでした。(^^;

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男はますます勉強しなくなるか?

 秋のライヴが終わりました。 来場のみなさん,ありがとうございました。
 
 ……と,お礼が済んだところで,本題。
 
 久々に渡辺千賀さんの「On Off and Beyond」の記事から:

いやー,面白い話です。 まあ,大都市固有の事情がプラスされたことによる結果でしょうが,こうやって地域を区切って調べれば当然ありうべき話であり,それがちゃんと現実になったのは,ある意味いいことではないでしょうか。 ……他人事だからそう言ってられるのかな。
 それにしても,コメントの
NHKの番組でやってましたが、NYの建設現場で働く女性の平均年収は1000万超えてるとか。
市がバックアップしていて、6週間の無料の講習を受けられて、その後、見習い期間でも時給4000円と言ってました。
しかも残業もなくて毎日3時には仕事が終わるらしい。
ITなんかやってるばあいじゃないですよ!w
ってマジかいな。
 
 上記記事からリンクされている過去記事「男子の学問下等市民化」(←これももちろんアメリカでの話ですが)と似たような話は,僕も NewsWeek かなんか(違ったかな)で読んだ記憶がありますが,その記事のほうは確か初等教育のほうでの男女差を問題にしていて,こちらも女子優位だという内容でした。 男としてはなかなかサビシイ話ですが,そうは言っても,こういったことを社会全体としてどの程度問題視すべきなのかとなると,なかなか微妙な感じがしないでもありません。
 ただ,渡辺千賀さんも書いてるとおり,日本でも同じようなことが起こってもまったく不思議ではなく,むしろ既に起こってることである可能性が高い……と僕も思います。
 
 
 さて,ここからはハッキリ言って与太話ですが,上の記事を読んで,だいぶ前に職場の昼休みにした雑談ネタを思い出しました。 簡単にまとめると:
  1. 一般に,研究する仕事というのは,どうも給料的にはもうからない職種になってきているらしい。 まあ,金儲けの現場からは離れているのだし,普段から金儲けのことを考えている人に比べればたいてい金儲け能力は低いだろうし,さもありなんである。 今後も,研究の仕事に携わる人の収入は,いろんな仕事の中での相対比較で考えるなら,おおむねその地位が上がることはなく,どちらかといえば下がっていく方向ではないだろうか(←これは仮定です。なにしろ昼休みの茶飲み話なので)。
  2. 諸外国のことは知らないけど,日本では,まだまだ家庭の主な収入は男の稼ぎであるという認識があり(←この点に付随するいろいろな問題点は捨象して,ここではとりあえずの現状認識),これまたよくわからないが,男性側の意識としてもそうであろうとしているし,女性側も少なからずそれを望んでいるという傾向があるのではないだろうか(←これも仮定です。なにしろ昼休みの茶(略))。
  3. 家族の主な収入源となることが男性性の重要な属性だという認識を今後も社会が持ち続けるなら(←これも仮定です。なにしろ昼(略)),男性の職業選択は「できるだけ大きな収入が早くから得られること」が重要な判断基準になるので,その基準から乖離した職業を選びにくいというバイアスがかかり,選択の範囲はどちらかというと狭められる方向になる。 一方で,女性のほうはそういう縛りがないぶん,選択の自由はどちらかというと広くなる。 ……もちろん,現状,多くの職場で男女の待遇差は少なからずあり問題山積だが,制度的にもそれらは解消される方向に向かうだろうし,また,そうならない職場は有能な女性に振り向いてもらえなくなるリスクを抱えることになるだろうから,総じて女性の職業選択の自由度は広がる方向に向かうだろう。
  4. ホントのところは調べたことがないけど,女性の4年制大学進学の率は上がっているだろうし,大学院進学者に占める女性の比率も同様だろう。 しかも,「女が大学なんて」なんて言って娘の前に立ちはだかる親は既に減っているだろうし,今後も減るだろう。 であれば,高学歴を人生における武器(ないし,人生を豊かにするために身に着けたいもの)にしようとする女性は増える傾向にあるだろう。 一方で,男性にとっては,博士後期課程などへの進学者数は「できるだけ大きな収入が早くから得られること」の「早くから」の部分に抵触することや,かかる年数・投資に対するリターンが低く見積もられることから,次第に減少するかもしれない。
  5. こういった流れがどんどん加速すれば,将来的には,研究する仕事というのは(日本では)女性がその多くを担うようになるのではないか。 どちらかというと研究現場は女性メインで,収入を度外視した変わり者の男が少数派として紛れ込んでいる……なんていう未来がやってくるのかもしれない。 これは(少なくとも表面的には)現状と逆のように見えるが,そうなったらなったで,まあよいではないか,わっはっはっ。
というような話をしたのでした。
 もちろん,ホントにこういうことになるなどと思ってるわけではなく,比較的穏当そうな現状把握の範囲からやや極端な結末に飛躍して面白がってみたわけですが,その意図通り,このあまりにいい加減&ツッコミどころ満載な論理展開に周りがパクパク食いついてきたおかげで,ちょっと楽しい「議論ごっこ」の昼休みになったのでした。
(そもそも,これからの時代を論じるのに男女を別々に扱おうという視座そのものに問題がある……という指摘もあるかもしれませんが,男ばっかの職場の雑談ネタなんだから,そういうことを言ってもしょうがないのです。(^^;)
 
 もちろん現実は茶飲み話じゃないのでどうなるか分かりませんが,いずれにせよ,日本でも(のろのろと,かも知れないけど)空気が変わっていくでしょう。 とりあえずは,新たな「役割の固定化」に向かわないように,ケアしなければいけないのかも知れません。

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悪者探しではなく

 いや〜,何も書かずにいるとアクセス数が減りますね。 まあ,当たり前か。(^^;
 ということで,今日はつなぎみたいなもので,単なる雑感めいた話です(根拠や証拠の提示を期待しないで読んでください)。
 
 
 以前の記事で採り上げた奈良・大淀病院の件は,どんどん困った方向に進んでいるようで,どうにもこうにも困惑します。 僕が読みに行っている医療方面のサイトの多くで継続的に採り上げられていますが,ここでは「S.Y.’s Blog」のこの記事経由で知った「なんでこないに好きなんかな〜 難儀やなあ」の記事「記者の質がすごく落ちている」およびその補足記事を紹介しておきます。 取材した側の経緯について考察している記事という点で,以前紹介した医療系のサイトとは若干方向が違っていて,その意味で貴重な記事かもしれません。 この記事で述べられている内容はほとんどが想像でしかないということも出来るし,どういう方が書いているのかもよく分からないのですが,一読の価値はあると思います。
 
 さて,それはそれとして,これまた以前にも紹介した「道標 Guideboard」のこの記事において,医療崩壊に関して,かなり圧縮した形で概観が述べられています。 個人的には,道標主人さんの洞察や思いは,この概説だけを読んだのでは伝わりにくいように感じるので,あくまでこれは入口みたいなものだと思っているのですが,その最後のところで道標主人さんはこのように述べています:

以上の 1. - 4. について考えてみて、医療崩壊の最も根源的な要因は、私は 3. で触れた人の心だと思う。医療が身の回りにありふれたものとなり、人々が医療を粗末にした結果なのだ。

実は,こういった「崩壊」状況に近づいているのは「医療」に限ったことではないということを示すような指摘(というか告発というか)があちこちでなされているようです。 それらを見聞するに,高い専門性が必要な分野では少なからず類似したことが起こっているようであり,加えて,僕が実生活で聞いたりする話からも,それを感じることがあります。 まあ言ってみれば,だからこそ,以前こういう記事を書いた(書こうとした)わけです。
 多くの場合,「高い専門性」は既存の「権威」に結びついている(すなわち強者である)と見做されるわけなので,報道などではどちらかと言えばそれを失墜させるような方向が「正義」と捉えられ,そういう方向の力ばかりが強く働きがちなこと,「高度な専門性」を(その達成困難性に十分な注意が払われないまま)「当たり前に存在するサービスのひとつ」と見るような考え方が広まってきたこと,……などといったあたりにその要因があるような気がしています。 再び医療を例に出せば,患者に「様」とつけて呼ぶようになったあたりが,そうした変化を象徴しているような気がします。
 
 こういったことと関連して,僕が最近ちょっと気になっていることの1つに,日本の「官僚」って悪く言われるばっかりだな〜,ということがあります。 手放しで褒められてる場面なんてのがあったら教えて欲しいくらいなんですが,彼らは果たしてそんなに糾弾すべき「悪事」ばかりを働いているのでしょうか??
 霞ヶ関住人を公言して Blog を書き続けている「bewaad institute@kasumigaseki」のこの記事でも,若干自嘲気味に,
 
(前略)結局のところ、皆霞が関に汚れ役を押し付けているんですねぇ、といじけてみます。 (中略) たとえば八田先生のご意見にしても、それに対する異論が社会においてごく少数にとどまるならば霞が関だって喜んでその施策を推進するわけで、そうはならないのは社会において意見対立が存在することの必然的帰結です。別に自分で意見集約をしろという気もありませんが、そうした対立の存在を完全に無視して、霞が関が自分たちのためにあれこれしているように言われるのは、非常に心外です。

と述べていますが,確かにそういう側面はあるだろうなと思うわけです。
 
 いつもここに書いてることと変わり映えがしない話になってしまいますが,官僚というものも1つの専門集団であると規定し(というか,事実そうだと思うわけですが),この社会における彼らの存在の必要性を考えるなら,それを尊重しない意見の述べ方は出来るだけ避けるべきではないかと思います(もちろん,専門性も必要性も認めないという立場もありうるわけですが)。 より具体的に言うなら,政策に対する「批判」ならともかく,単なる「罵倒」はどうだろう?と思うわけで。 ところが,こと官僚に関してはこの罵倒が平気でまかり通っているようで,しかも,逆に擁護する立場というのがあまり見当たらないような印象を受けます(繰り返しますが,あくまで,僕の印象だけです)。
 その一例に過ぎませんが,同じように激しいバッシングや罵倒に晒されている医療関係者のサイトに,なぜか官僚に向けて同様の罵倒発言が散見されるのは,とても残念なことです。 ……いや,気持ちは分からないでもありません。 僕自身,現在の日本の医療政策に問題が多いということについては,多くの医療関係者のサイトで述べられている意見のほうにむしろ賛意を感じるし,医療に直接関係する方々なら余計に,問題の多い政策にいらだっていることでしょう。 しかし,現在の政策を批判し,批判的な議論を展開することと,批判対象を罵倒することとは,次元が異なります。 そういうのを見ると,読者としては,議論の内容そのものには賛成しつつも,ひいてしまいます……ナイーヴに過ぎるかもしれませんが,門外漢的な立場にある一読者としての正直な感想です。
 
 そんなのは瑣末的なことじゃないか,議論の本質を見るべきだ,お前はスルー力が足りないのだ,という批判はあるでしょう。 しかし,このことを看過する気になれないのは,もちろん不快な感情的発言を読みたくないという個人的な願望からでもありますが,上記「道標 Guideboard」の記事からの引用部分にもある「医療崩壊の最も根源的な要因は、私は 3. で触れた人の心だと思う」ということに強く同意するからでもあります。 そうであるなら,それを重視したやりかたで議論すると言うことも,やはり意識していたいなあと,自戒も込めて思うわけです。
 また,同時に,上記 bewaad institute の webmasterさんが「医療崩壊—『立ち去り型サボタージュ』とは何か(小松秀樹著)」を読んだ感想を述べた記事で,
 
では、そこに希望はないのでしょうか。webmasterは唯一、知識人、あるいは専門家同士の共感が成立する可能性にそれを見出しています。どんな知識人・専門家であれ、専門外の分野においては素人ですから、他の専門についてそれが魔法と見えることには変わりありません。しかしながら、こうした人々であれば、自らの専門分野が魔法でないにもかかわらず、魔法であるかのように見られるという体験から、他の専門分野についても、きっと魔法ではない、何らかの合理的なメカニズムがあるはずだという信頼、魔法であるかのように見られて苦労しているであろうという共感が成立し得るのではないでしょうか。

と述べており,実は僕もこの点にかすかな希望を見ているから,でもあります。
 
 まあ,専門家同士の共感と言っても,難しいことではあります。 上の記事でも,この引用部のすぐ後に続けてそのことに触れています。 また,以前紹介した「元検弁護士のつぶやき」は司法と医療の相互理解の実践の場とも言うべきサイトですが,先ごろ,モトケンさんが議論を続けることへの根本的な疑念を表明するということがありました。 現在は徐々に落ち着いてきているようですが[追記(2007/06/15): ……と書いたら見通しが甘かったようで,むしろ今はかなりクリティカルな様相を呈しています。 この追記の意味まで含めてチェックしたい方は,かなりたくさんのテキストを読むことを覚悟したうえで「元検弁護士のつぶやき」を見に行ってください。],これなども,専門家同士の共感の成立というのが,それほどたやすいわけではないことを示す例と言えるかも知れません。
 
 やや話が遠回りしましたが,このような文脈において,「専門集団としての官僚」と捉えた議論の仕方というのが成り立たないかと思ったりするわけなのです。 政策というものが,多くの場合,必然的に人々の利害の対立に関わるものである以上,他の専門家同士の対話よりも更に難しいことは,容易に想像できますが。 ……的外れか,あるいは,希望的考え方に過ぎるでしょうか。
 
 
 
[蛇足]
 ここまで読んだ方はお気づきのとおり,以上述べてきた図式は「官僚」を別の言葉で置き換えても容易に成り立つものです。 援護射撃の少ない(ように見える)専門集団を「官僚」という言葉で代表させただけ,とも言えます。 そのような言葉遣いを除けば,いつも書いてることと大差ないかも……。 まあ,今回は根拠ナシの雑感なので,コイツはそんなことを考えてるのか,という程度に見てもらえれば……ってところです。

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2・18

 ライヴだのなんだのとドタバタしてるうちに(来場の皆さん,ありがとうございました),すっかり周回遅れになってしまいましたが(3周くらい遅れた感じ),一応,態度を表明しておきます。

 『我々は福島事件で逮捕された医師の無実を信じ支援します。』

 唐突ですいませんが,以前の記事でも若干触れた,いわゆる「福島事件」で医師が逮捕されてから1年ということで,「新小児科医のつぶやき」のこの記事から拡がった表明の輪です。
(この記事自体も,「ある産婦人科医のひとりごと」のこの記事および「いなか小児科医」のこの記事にトラックバックを送っています。)
 僕を直接知っている方は,こういう徒党を組むようなことに僕が加わるのを珍しく思うかもしれませんが,……まあ,たまにはこういうこともあります。
 
 この輪,当然と言えば当然のことながら,医療従事者の方々の参加が多いようです。 そういった方々は,(程度の差はあっても)恐らく,伝えられている事実関係を専門家の見地から冷静に判断し,その上で態度を表明しているものと思います。 一方,僕は門外漢ですから,ある程度は情報を集めたと思っていても,そこには当然漏れもあり,そしてまたそれ以上に,自分勝手に下した判断は多少なりとも冷静さに欠け,間違いが付け入るスキも十分すぎるほどあります。
 でも,敢えてここで態度を表明するのは,専門家同士の支援の声と同時に,専門外である人間からの後押しの声がもたらす効果が重要と信じるからです。
 
 
 
*「福島事件」については,上で挙げた Blogのほかにも数多くの言及がありますが,ここでは,

の2つを紹介しておきたいと思います。

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平和な光景

 たまには趣向を変えて,日記みたいな話を。
 
 先日,近所の店に行くと,なにやら,店の外までやたらと行列が出来てました。 別に普段から「行列の出来る店」ってわけではないんですが。 よく見ると,どうも親子連ればかりのようです。 なんだろう??と思いながら店に入っていくと,なんと,ボウケンレッドが店を訪問していたのでした。 ちょうど僕が店に入っていった直後に,ボウケンレッドが拍手と共に登場。 その後,子供達とコミュニケーションをとるのをちょっと眺めていました。 いやあ,かっこいいぜ,漢だぜ(?),ボウケンレッド!!
 
 …って,テレビを観ない僕は,当然ボウケンジャーも知らなかったわけですが,なにしろこの手の戦隊モノの元祖であるゴレンジャーをリアルタイムで観た世代なので,なかなか微笑ましいと思ったりしました。
 それにしても,正義の味方がこんな町外れの店をたずねてきてくれるとは,いい時代になったもんです。 日本もそこそこ平和なので,平和を守る仕事もこうやって骨休めが出来たりするんでしょう。
 それに,考えてみりゃ,彼らは自分たちで守った平和な時間を使ってあちこち訪問してるのだから,これは,二重の意味で「平和な光景」ということになるのかも(なんのこっちゃ)
 
 で,正義の味方の訪問といえば,こんな記事(その前のここから続けて読むといいかも)があったのを思い出しました。 いや,思い出しただけで,だからどうということはないんですが,僕にとっても,なぜか分からないんだけど(変身ヒーローの中でも)ウルトラマンとウルトラセブンは別格って感じがあるんですね。 改めて考えると,ちょっと不思議ではあります。

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いい演奏には拍手しよう(未完成)

(以下を読めば分かるとおり,タイトルは特定の何かを指してるわけではありません。)

 最近はすっかり月イチ更新ペースになってしまっている当BLOGですが,なぜか更新ペースが落ちてきてからのほうが参照回数が増えるというナゾの事態になっています (^^;。 う〜む,書かない方がいいとはこれ如何に……という気がしないでもないんですが,まあ,僕のサイト程度のアクセス数だと,なんにせよページヴューが増えるのは素直にウレシイものです。
 



 ところで,秋に入ってから立て続けにライヴがあり,ドタバタしてました。 来場の皆さん,どうもありがとうございました。
 
 僕たちアマチュアにとってライヴというのは音楽的にどうこう言う以前に「楽しいお祭り」にほかならないという面がありますが,そのような「にわか演奏者」であっても,ときに素晴しい体験をすることがあります。 実は,秋口にやったライヴでも,ちょっといいことがありました。 やった曲の中にかなり有名な曲が1つあり,僕たちは一計を案じてその曲の途中にやや大胆な仕掛けを入れたアレンジにしていました。 で,ライヴ当日,僕のいるバンドが演奏を始めたころは,まだ前のバンド(楽しい&素晴しい演奏でした)の盛り上がりの余韻で会場はザワザワしていたんですが,その曲に入りその仕掛けのところが来ると,客席の注意が一気にステージを向いたことがハッキリ分かり,仕掛けを抜ける頃には大きな声援(←当社比)が起こりました。 これは本当にうれしい瞬間でした。 もちろん,心の中で密かにガッツポーズをとっていたことは言うまでもありません。
 
 もしかしたらステージに立ったことのない人には想像しにくいのかもしれませんが,ステージ上のパフォーマーは,客席の人が考えている以上に,客席をよく見ているし,客席の反応に多くを負っています。 リアルタイムでの客席の反応に喜んだり落胆したりしながらパフォーマンスを進行させているのです。 こういうのは,別にステージでなくても,先生なら生徒の反応を見ながら授業をするのは普通のことでしょうし,仕事でプレゼンテーションをしたことのある人なら,ある程度こういった心境に共感できるだろうと思います。 いい反応があるときというのはやはりうれしいし,より気合も入ったりします。 反面,冷たい反応だと自分の能力不足を痛感することにもなります。
 
 さて,話は全然違うんですが,奈良・大淀病院のニュース以降,「医療崩壊」という問題がますます大きな話題を集めるようになっているように思います。 「医療崩壊」自体はかなり前から言われていたことでもあり,今のところそれらの問題についてここで詳しく採り上げるつもりもありませんが,僕自身は,比較的最近起こったいわゆる「福島事件」をきっかけに,ようやくこの問題に関して注意して情報を見るようになったという事情もあって,今回の奈良県のニュースについても,その流れの延長上で,医療従事者の方々のBLOGなどを通じて詳細を把握した面があります。 すると,そうしたところで得られる情報と,マスコミでの報道の方向(内容も)とは,かなりの乖離があることに嫌でも気づかされてしまうわけで,詳しい言及をしているサイトを幾つか紹介しておくと,
報道だけで今回の事件を見聞きした方は,これらサイトの記述ではかなり印象が異なることに驚くのではないでしょうか。 もちろん本当のところ「真相」がどうであるのかは分かりませんが,上で挙げたサイトの情報はかなり信憑性が高いもののように僕には感じられます。 そして,それらを信じるなら,治療に直接携わった方に大きな落ち度があるようにはとても思えず,不幸な出来事ではあるけれど,医師を責めるのは筋違いという気がします。 むしろ,今後を考えるなら,それ以外の点に目を向けるべきでしょう。 でも,このニュースを採り上げた BLOGを見にいくと,その多くが医療関係者をほとんど一方的に非難する論調になっていて,個人的には,大きな違和感というか,居心地の悪さみたいなものを感じてしまいます。
 
 今回のことから話を一般化するのは強引なのかも知れませんが,最近こういったニュースに接するたびに思うのは,専門的な知識・能力に対する敬意の不在です。
 もちろん,専門家の言うことは「常に絶対正しいのだ」とか「何でも鵜呑みにしろ」などと主張するつもりはないし,そういう時代でもありません。 権威に一方的におもねるのは,ほめられた態度じゃないでしょう。 マスコミの報道にしろ,ネット上での情報にしろ,そういった権威を一旦解体し,内容本位で再構成しようという流れが底流にあるわけで,基本的にはそれは悪くない話かも知れないとも思います。 しかし,必要以上に「敵視」し「攻撃」し「足を引っ張って」しまうのはどうかと思うのです。 実際問題として,専門的な知見をベースにした意見は,ある程度,注意深く耳を傾ける価値がある(場合が多い)わけですから。
 
 まあ,それは当たり前,尊重すべきときはするけど,批判すべきときは批判すべきだ……ということなんでしょうが,僕が感じる違和感の1つに,だったら,褒めるべきときは大いに褒めるというのも,あっていいんじゃないか……というのがあります。
 
 例えば,医療に関して言うなら,WHO(世界保健機関)の "world health report 2000" では世界の国々の医療システムの水準比較を行なっていますが,日本はその中で世界1位にランクされています(このファイルの p196-199 参照)。 もちろん,項目によって順位はいろいろなんですが,総合的に見れば日本の医療は世界一ということのようです。 素晴しいことじゃないですか。 しかも,かかっている医療費となると,かなり少ないほうです(→例えばこのページなど参照)。
 スゴイことじゃないでしょうか。 世界一ですよ,世界一! このことはもっと知られても良いのではないでしょうか。 同列に比べることではないかもしれないけど,WBC (World Baseball Classic) での日本チームの優勝にあれほど熱狂し賞賛するのであれば,(僕たち自身が直接恩恵を受ける)医療について総合世界一と言われたなら,とりあえずその場でイスから立ち上がって拍手するくらいのことはしてもいいんじゃないでしょうか。
 「よくやった!!」
 「これからも頼むぜ!!」
  パチパチパチ……!!!
世の中,そうそう完璧と言うことはないわけで,世界一と言ってもいろいろ問題が残っているのは確かですが,批判するのは,そうやってスタンディング・オベーションをした後でも遅くないように思います。
 
 どうも,そういうところが抜け落ちているような気がするのです。 なんか,「批判ばっかり」のように思えるのが,僕の気のせいならいいんですが。
 と書くと,まあここで書かれているような話に通じるわけですが,現状の報道と言うものの性質を考えるとなかなか実現が難しそうなことではあります。 それでも,基本的なところで,社会にとって必要な(あるいは,必要だとみんなが思う分野の)専門家は,それが魅力的に見えること,敬意を払われること,といったことが,ある程度はあるべきなんじゃないかと思うのです。 魅力ないところに人は集まらないし,優秀な人材となるとなおのことなわけですから。
 


 ……と,実は上の段落まではかなり前に書き終えていたんですが,続けて書こうとするとどうも話が発散しそうなことに気がついたので,ずっと放置したままになってました (^^;。 このままでは掲載時期を逃してしまいそうだけど,書き直すほどのヒマもないし,でもボツにするのももったいない。 ということで,尻切れトンボのまま載せちゃうことにします。 まあ,個人の Blog だし,こういうこともあるってことで (^^;。

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時報の「あの」時計

 スラッシュドット・ジャパンこのトピック経由,NHKオンライン「ラボブログ」この記事から:

へ〜〜〜,これ,実物の時計だったんだ。 なんとなく,画面表示として存在するだけのような気がしてました。 ちょっと感動。

(なお,このツール,時刻はこれを観てる人のパソコンの時刻が表示されてるだけで,正しい時刻が表示されるわけじゃないです。 この点はやや残念。)

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牛乳が毒だと誰かトクするのかな?

 怒涛の(←当社比)ライヴ月間が終わり,ちょっと一息ついたという感じです。 来場の皆さん,ありがとうございました。
 
 
 それはそうと,なぜか最近「牛乳有害説」なるものが広まってるようですね。 特に気にしたことがなかったんですが,考えてみると確かに比較的最近,新聞の1面下の広告に「牛乳は毒だ!」みたいな感じの題名の本の広告があった記憶があります。 (関係ない話ですが,1面の下のほうにある本の宣伝って,どうしてああもアヤシサ満開なんでしょうか。(^^;)
 
 ちょっとだけ調べてみると,どうも「牛乳有害説」というのは,欧米ではこれまでも何度か出てきたことのある説らしく,特に目新しい話というわけではないようです。 この説を唱えている人の中には食品や医療・健康についてなんらかの専門性を持った人も含まれているということらしく,何かの根拠があるのではないかと思いたくなるんですが,しかしながら,結局のところ今に至るも専門家の間の主流の意見とは到底言えない,ということのようです。
 で,何がきっかけかは知りませんが,日本国内でもなぜかジワジワと広がっているみたいで,Google で検索すると例えばこんな記事がひっかかります。 この記事にも記載がありますが, 2000年に「月刊テーミス」,2001年に「新潮45」,と相次いで牛乳の摂取を批判的に扱った記事が掲載され,農林水産省が両社に抗議する事態になっています。

  • 「『月刊テーミス』11月号掲載の記事に対する農林水産省の申し入れ』はこちら
  • 「『牛乳はこんなに身体に悪い』(新潮45 6月号)に対する農林水産省の申し入れについて」はこちら

お上の言うことを鵜呑みにする権威主義的なヤツと思われるかもしれないけれど(あるいは,国の陰謀に気がつかない愚か者ってとこか(^^;),これら申し入れの文章は,主要な論点のかなりの部分をカバーしているように思うので,気になる人は1度読んでおいて損はないでしょう。 (特に,牛乳の摂取を控えるべきというのが米国において国家的なコンセンサスになっているかのような印象を与える両紙の記述が間違っているというのは,米国の一次情報を読みに行くのが面倒な僕にとっては,有害説の論拠の主要な一角が崩れるという意味でポイント高い部分のように思えます。)
 
 上で例として挙げた「世論時報」の記事なども(この記事を挙げたのは,たまたま検索の上位にきたものの中でも良くまとまった文章だったからで,他意はありません),相関があることと因果関係があることとの(恐らくは意図的な)混同や,無関係な問題をあたかも関連があるかのように見せる話の展開など,かなりの無茶を重ねた内容になっていて,さすがに真に受けろと言われてもムリがあります。 しかし,残念ながら(?),今回日本語で読めるものを部分的にざっと見た範囲(さすがに,あんまり時間をかけてられなかった)では,牛乳が有害だと唱える人たちのロジックはほぼ似たり寄ったりのように思えます。
 また,(今回見た範囲では,ですが(←シツコイ))有害説に賛同する専門家の人たちというのは,どうやら多くは菜食主義を薦める立場の人たちのような感触があります。 まあ,牛乳に含まれる脂肪分なんかを問題にする立場と菜食を薦める立場とが結びつくのは自然な気もするわけで,この手の言説に触れる場合には,こうした結びつきにも注意を払うべきかもしれません。

 ……と,こういった要素を次々と剥ぎ取っていくと,結局のところ「有害」という話はどこかに消えてしまって,残った否定的なニュアンスを持つ要素は「牛乳で摂れる栄養素(カルシウムなど)は他の食品でも摂取可能で,体質的に合わない人までもが無理して飲むことはない。 だから,牛乳を絶対視するな。」という,ある意味あたり前のことだけになってしまうように見えます。
 ということで,またしても「少なくとも現時点で気にするような話ではなさそうだ」という結論になってしまいました。(^^; ま,当然か。
 
 
 それにしても,こういうのを熱心に広める人たちを見ていると,もしかして,なにか「不自由になりたい」という潜在的なニーズがあるのかな? なんて思えてきます。 「仕事のときには背広を着といたほうが無難」みたいに,多少のシバリがあるほうがある意味で楽な場合があることは分からなくもないとはいえ,基本的には,不必要な不安や不必要な制限なんかないほうが,食生活は楽しいと思うんだけど……。 もしかして,それでトクする人がどこかにいるんじゃないか,などと穿った見方の1つもしたくなろうというものです。


追記(2006/03/03)
 ろくに調べずに不適切な例をひいてしまったので,その部分を削除しました。 やはりちゃんと調べるべきですね。 反省。 指摘してくれた方には,不快な思いをさせたことをお詫びすると共に,指摘に感謝します。

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専門家によるコミュニケーションを阻むもの

 以前紹介した Food Science の連載「松永和紀のアグリ話」の新着記事「農薬リスクコミュニケーションはどこまで可能か」を読んで,「う〜ん」と考えさせられてしまいました。
 
 記事では,昨年の日本農薬学会レギュラトリーサイエンス研究会の様子が書かれていて,化学物質に過敏なお子さんを持つお母さんの(きわめてまじめな態度で,しっかりした意見を述べた)講演と,それを聴いた会場の研究者の(こちらも変だとは言えない)反応が描写されています。 詳しくはリンク先の記事を読んで欲しいのですが,結局,研究会はそれぞれがそれぞれの話をしただけで,期待されたような議論は起こらなかったということのようです。 松永さんは次のような感想を述べています:

 市民と研究者のリスクコミュニケーションがさまざまな学会などで始まっているが、同様のケースになることが多い。科学的な知識量に大きな差があるので、研究者は市民を傷つけることを恐れて質問や意見を控えてしまう。それも人情だ。だがその結果、だれもが意見を言いっぱなし。話を“拝聴”してすぐに忘れ去るように見える。あの状況でお母さんを責めることはできないし、主催者である学会側を批判するのも酷だ。

確かに,研究者側の立場に立てば,例えば,講演したお母さんの実験や推論について別の可能性を示そうと思ったとしても,よほど慎重に言葉を選ばないと(あるいは,選んだとしてもなお),そのお母さんを傷つけてしまう結果になりかねません。 更には,敵/味方というような2元論的な考え方をする人と言うのは必ずいるものだったりするので,そのような人から,そのお母さんに敵対したとみなされるかもしれず,あげく「市民の敵」というレッテルを貼られるかもしれません。 そうした(決して小さいとは言えない)リスクを敢えて冒してまで対話を進めようとするのは,理想的にはそうあるべきだと思ったとしても,現実にはそう簡単なことではないでしょう。 特に,このようなシチュエーションでは,報道にしろ何にしろ,市民側に同情的な反応や報道がなされるのが常なので(←これも,ある程度は無理からぬことでしょう),専門家側はますます慎重にならざるを得ないだろうと思います。
 
 しかし,松永さんが指摘している通り,この状況はとても「幸福な状態」とは言えません。 実際問題として,量的にも質的にも,専門家の持つ知見というのは,いろいろな意味で素人の想像を超えていることが多いわけで,それを社会に活かすことを考えないのは,あまりにもったいない。 僕自身,ネット上も含め専門家の情報発信を歓迎する立場なので,この現状はなんとかならないものかと思ったりしますが,もちろん,市民側が一方的にへりくだって専門家の話を拝聴するというのは違うように思うし,専門家側にコミュニケーションは重要なんだから誤解されても発言しろというのもまた違うように思えるわけで,総論的には「両者がお互いを尊重して」というキレイな言葉でまとめることが出来るのかもしれないけれど,これが言うほど簡単ではないというのを端的に表わしているのが上記のような現状なのでしょう。 
 
 
 専門家がコミュニケーションへの一歩を踏み出そうとしたときのトラブルというのとはちょっと違うかもしれないんですが,全く無関係とはいえない構図が内在するように思えるので続けて紹介すると,先ごろ理系白書ブログのコメント欄でちょっとしたゴタゴタがあり,そのことについて「発声練習」さんがこの記事で意見を述べ,また更に,yaharaさんが「空飛ぶ教授のエコロジー日記」のこの記事でそれらへの感想を述べています。 どちらも非常に共感を覚える内容です。 もちろん僕自身は元村さんや yaharaさんよりも全く気楽な立場で BLOG を書き飛ばしている(というほど快調なペースではないか(^^;)わけではあるけれど,曲がりなりにもネット上に文章を載せている者の1人として,「元村さんと同じような立場に自分が立ったら」と考えないわけにはいきません。 yaharaさんの
私は、素直に過ちを認められない元村さんの態度に疑問を感じはするが、しかし、元村さんに対する批判の熾烈さにも、たじろぐ。

という率直な感想には共感するし,また,その率直さゆえに yaharaさんに敬意も感じます。 また,上で書いたこととも関連して「発声練習」さんの以下の指摘にも賛成です。
科学に携わる人間は、自分が間違えるということ。
間違えを受け入れなければ前進はないことを知っています。ですから、間違えた
ときには考えを訂正すればよく、なぜ自分が間違えたのかを分析し公開できれば
よりよいことであると知っています。

しかし、間違えたということ自体を非難され責任をとらされるという環境においては
上記のような考えは成り立たなくなります。守りに入り、不正確なことはしゃべらず
沈黙する。それしか、身の処し方がありません。


また、間違いを正すのを許さず、間違った時点で死刑宣告を下すという風潮も、
専門家の発言を殺します。社会に出た瞬間、間違いをまったく許さないのであれば、
人はどこで成長して、自分を変えていくのでしょう。

ここで指摘されているような様相は,「専門家に対する期待感の表れ」と好意的に解釈することももちろん可能ですが,しかし,現実には,権威を持つ者への攻撃というか,ネット上なんかでは一種の「いじめ」のように見えることが少なくありません(あくまで私見ですが)。
 
 
 イラストライターの南伸坊さんが,20年以上も前の著書「哲学的」の中で「現代はイジメ社会である」という意味のことを述べ,その「イジメ」はかつてのような「強い者が弱い者をいじめる」図式ではなく,むしろ逆向きのベクトルになっていることを指摘して,次のように書いています:
これはもはや,力のない者が力のある者にあこがれるというような図式ではない。 今は力のないもののほうが強いのである。 そして,力のないものはそれに気がついていないのである。
(記憶を頼りに書いてるので,引用文はとんでもなく不正確です。)

また更に続けて,
プライドのない強さには歯止めがない。 自分は強くないと思っているから,どんどん強くなってしまうのである。

僕の場合,ネット上でのゴタゴタやいわゆる「炎上」を見ると,この文章が頭に浮かんでくることが多いです。 だからどうすべきか?となると,いい考えが思いつかないのだけれど。

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