Silhouette Illusionと右脳・左脳

 けっこう前の話ですが,シルエット状態の女性が回転する動画が出てきて,それがどっちに回って見えるかで「右脳派」か「左脳派」かが分かるっていうのがネット上で流行ってましたね。 僕が初めて見たのは(毎度おなじみ)渡辺千賀さんの "On Off and Beyond" のこの記事からリンクされてたこのサイトなんですが,それ以降,ニュースサイトや直接の知り合いのサイトなんかも含め,あちこちで同じ動画を目にすることになりました。
 で,上記 渡辺千賀さんの記事の時点で既に「右脳/左脳に本当に関係あるかどうかは確かに疑わしいですねー。」なんて書いてあるわけで,実際それに近いエクスキューズをつけた上で件のフラッシュを載せているサイトも,けっこうあるようです。 なにしろ作品としてキレイだし,見る人や見方によって回転方向が変わるのは面白いので,横についてる説明は眉唾だと思いながらも紹介したくなる…っていう気持ちは僕にも分かります(というか,書いてるサイトが少なかったら,僕が紹介したかも)。
 
 で,いわゆる「右脳・左脳論」に照らしてみるなら,僕なんかは,直接知るひと10人に訊いたら10人が「左脳ばかりが肥大化して右脳がしなびてしまったようなヤツだ」と言われちゃいそうなんですが,残念ながら(?),僕はこれを見ていて,わりとすぐにどちら周りにも(かなり自由に)見れるようになってしまいました。 となると,さしずめ「めちゃめちゃ左右のバランスがとれている男」ということになりますね(エッヘン!)。
 
 
 なーんて言って終わりにすると,いろんな知り合いからブーイングが起きそうなので(^^;,以下,言わずもがなの話を。
 
 これは,(右脳・左脳というよりは)単に錯視の作品でしょうね。 紹介してる中には,既にそう書いているサイトもあります。 で,錯視と言えば…ということで,以前紹介したことのある北岡明佳の錯視のページ(北岡明佳教授(立命館大・文学部(知覚心理学)))を見に行くと,さすがというかなんというか,ここでも既に紹介されています。 「多義図形・反転図形」のページで「シルエット錯視」として賞賛の言葉とともに挙げられていて,ここでついに,元ネタが "WWW.PROCREO.JP" でフラッシュ作品の例として掲載されているこれであることを知りました。
 それにしても,元のサイトでも,"Silhouette Illusion" と言ってるだけで,右脳・左脳なんて話はありません。 誰がこれを「右脳・左脳論」と結び付けたのか,ナゾではあります。
 
 んでもって,更に言ってしまえば,ここで言っているような通俗的な「右脳・左脳論」には,ろくに根拠らしい根拠がない……というのが現実のようです。
 「『右脳』&『左脳』」で Google検索すると,もうそれこそ山盛りヒットしますが,(検索結果の上位のほうをちょっとだけ見に行った印象にすぎないけど,見た範囲では)それらのサイトで述べている科学的根拠らしきものが,多くの場合「うさうさ占い」などのいくつかのところの文章の引き写しのようで,ノーベル生理学・医学賞を受賞した Roger W. Sperry の分離脳研究を「権威付け」に使っています。 しかし,例えば,Wikipedia「ロジャー・スペリー」の項「脳機能局在論」の項(特に,その中の「右脳・左脳論」の部分)を併せて読めば,世間に流布している「右脳・左脳論」はほぼ迷信に近いものと言っていいと判断できるのではないでしょうか。 「右脳・左脳論」の部分から引用すると:

  • 左半球全体が論理処理のために活動しているわけではない。また左半球だけが論理処理をしている根拠は無い。
  • 右半球全体がイメージ処理のために活動しているわけではない。また右半球だけがイメージ処理をしている根拠は無い。
  • 「右脳を鍛える」と称する訓練等があるが、それによって「イメージ能力」や「創造性」が向上し、それが右半球の神経活動と関係しているという科学的根拠は基本的に無い。
  • 脳機能イメージングでは神経接続関係を調べられない。右半球と左半球に活動のピークが認められる場合でも、「右脳と左脳が協調して働いている」といった論の根拠にはならない。

「右脳・左脳論」を載せてるサイトでは,左右の違いだけでなく「実際には右脳と左脳が協調して働いているのだから,両方をバランスよく鍛えることが大切」なんてことが書いてあったりしますが,上の記述はその点も含めてバッサリ!って感じです。
 ただ,この Wikipedia の記述では,「この説でもちいられる左脳、右脳という用語からして学術用語として用いられることは基本的になく」とありますが,ちょっと調べてみると,(学術用語としてではないかも知れないけど)専門家と目されてもおかしくないような人も使っていたりして,それがこの言葉への「お墨付き」的に機能して話をややこしくしている面があるように思います(→下の追記参照)。 更に,「医学博士」の肩書きを持つ人がこんな記事を書くに至っては,(まったく無根拠な話じゃない部分も含まれてるのかもしれないけど,それでも)ちょっと困ったなー……という気がします。
 
 まあ,ここで言う「右脳・左脳」は人体の脳とは関係なくて,たまたま脳という文字が使われた架空の概念をもてあそんでいるだけだと思うことにすれば,それを使った占いで楽しんだりすることなんかに特に目くじら立てる必要もないかな……とは思います。 実害があるわけじゃないだろうし。 ……などと思っていたんですが,あにはからんや,この記事を書くにあたってあちこちクリックしているうちに,かなりイタいサイトにぶつかったりしてしまいました。 ここではそれをいちいちあげつらったりはしませんが,ああなると「無害」とは言い切れないよな〜〜。
 それから,幼児教育系のセールストークなんかにも,この手の話が潜んでいたりするようなので,注意が必要でしょう。 見方を変えれば,アヤシイ教育業者を見分ける判断材料の1つにはなる……かな。
 
 
[追記(2008/05/10)]
 例えば,4/16付けでの JST(九州大学・NIPS共同)のプレスリリース
なんかがまさにそうで,確かに本文には「右脳・左脳」という言葉は出てこないんですが,見出しやリード部分では思いっきり使ってしまっています。 また,本文においても通俗的な「右脳・左脳」論を肯定的に紹介しているとしか読めない部分があり(「重要な働きをする」という,やや曖昧な言い方で逃げを打っているつもりなのかもしれないけど),ちょっとマズイんじゃないかと思ったりします。 プレスリリースだし,しかもJST が絡んでいるから,余計に「一般の人に分かりやすく」とか「自分たちの研究に興味を持ってもらえるように」とか思ったのかもしれないけれど,結果的には JST が「右脳・左脳」論に肯定的に言及した(=ある意味,お墨付きを与えた)と見做されても仕方ないことになってしまってるわけで,こういうのは,専門家という立場からの発表としてはちょっと無責任なのではないかと感じます。(ちなみに,この成果が発表された "PLoS ONE" の本文をざっと見た限りでは,そういう記述はありません……まあ当たり前だけど。)
 
(注)JST(独立行政法人 科学技術振興機構)は,言うなれば科学技術に関する国家プロジェクトの元締めみたいなところです。

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尊厳がある・・って?

 渡辺千賀さんの "On Off and Beyond"「犬の死・人の死」
 ここに書かれているハッピー(=犬の名前)の最期の様子というのは,人間である僕達から見ても,ある意味うらやましいと思えるものではないでしょうか。

 この話から思うこともいろいろあるのですが,記事に続くコメントチェーンのなかで渡辺千賀さんが「ぽっくり死ぬ、って理想ですよね・・・・。もしかしてこれ、日本人的発想なのでしょうか・・・。」と書いているのを見て,「そういえばそうだな」と思って和英辞書で「ぽっくり」をひいてみると,

# ぽっくり死/a sudden [an unexpected] death.

・・・そのまんまでわないか。(-o-)
それは「突然死ぬこと」であって,「ぽっくり」とは違うのでは?
「ぽっくり」という言葉にある「(日常の延長上のままで)衝撃的ではない」というニュアンスや,ある種の視線の暖かさみたいなものがすっかり抜け落ちているような・・・。 もちろん,僕には英語での実際のニュアンスがどういうものなのか分からないので,なんともいえない部分ではありますが,でも,スポーツ中継などで延長戦に突入したとき「延長戦はサドン・デスの方式で争われます」というときのどことなく劇的なニュアンスに対して,「延長戦は “ぽっくり方式” で争われます」では緊張感が削がれることはなはだしいのでは・・・。
(ちなみに,"die suddenly" 以外に "drop dead" とか "pop off" なんていう言い方もあるそうです。 こちらの方が,「ぽっくり」のニュアンスに近いのかも。)

 年老いて死ぬというと,「痴呆」「寝たきり」などのネガティヴなイメージが強くなりがちですが,そんな否定的に捉えなくてもいいのかも・・・と思わせられるのが,知人が話してくれた(彼の)おじいさんの例です。
 90歳過ぎまで生きた長寿の方だったそうですが,酒もタバコも好きなだけやり,ホントに元気いっぱいだったそうです。 90過ぎても毎日のように外出して楽しく老後を送っていたのですが,そんなある日,いつもより心なしか元気がないように思えたので,家族が何かあったのかと尋ねたところ,「いや〜,なんかちょっと疲れてるみたいなんだ」と言う。 珍しいことを言い出したなぁと思ったが,特にどこか体調が悪いわけでもなくちょっと元気がないだけだと言う。 ・・・で,次の日,布団に入ったまま亡くなったそうです。 死因は「老衰」。 つまりは,最後の最後まで病気ひとつせずに人生を送り,寝たきりになることもなく天寿を全うしたということで,知人は「人生の最後は,ああありたい。 あれなら長生きもいいものだ」と言っていました。 僕にとっても,「老衰」に対して持っていた暗いイメージを払拭される話でした。

 人生最後の日々における医療や QOL (quality of life) については様々な意見があると思いますが,少なくとも現状では,その人の持つ経済力(どこまで金がかけられるか)や,住んでいる場所の医療の状況に大きく左右されるもののようです。 僕は地方出身ですが,田舎では特に,その土地での(数少ない)医療従事者の考え方に支配されることになり,地元の人もそれを受け入れざるを得ない面が強い(それ以外の選択肢の存在を知らされないという面もあるわけで)ように思います。
 医療コストをどうするのかという問題も大きいですが,何しろ本格的な高齢化社会を迎えるこの国においては,このあたりは無視できない問題になるに違いありません。

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数の認識は根源的なものか?

 スラッシュドット・ジャパン話題になったのでご存知の方もいるでしょうが,Science 誌の Science Express 2004 年 8 月 19 日付で Peter Gordon "Numerical Cognition Without Words: Evidence from Amazonia" という論文が紹介されています。 間もなく紙媒体の Science 誌にも出るのでしょうが,スラッシュドット・ジャパン経由で preprintらしきものが入手できたので,紹介します。
 普段この手の文献に接することがほとんどない門外漢がこういうことを言うのも気が引けるのですが,正直な感想を言うと,論文自体はそれほどレベルの高いものとは思えず,この内容から何らかの確度の高い結論が導けるとは思えません。 しかし,論文の主旨以上に,人類学・民俗学的な興味を掻き立てられる面があり,当初,僕が興味をひかれたのも主にそういう点でした:


 ブラジルのアマゾンに住むピラハー族(Piraha tribe; 元の綴りでは ha の a の上に 〜 が付いてます)は,ブラジルの主流の文化に同化することを拒否し,狩猟・採集の生活を続けている総人口 200 人足らずの人々で,彼らの言語はピラハー語と呼ばれます。
 ピラハー語の「数」の表わし方は,僕たちのような十進法ではなく,かといって,一部の民族に見られる2進法的なものでもありません。 数を表わす単語としては,“だいたい1” にあたる「イ」(ホを高くして,下がってくるように発音),“だいたい2” にあたる「ホ」(イを高くして,ずり上げるように発音),“たくさん” に対応する「バアギ」および「アイバイ」があるだけなのだそうです。 これは,言ってみれば「1つ,2つ,いっぱい」みたいな感じに見えますが,実はそうですらありません。 上で “だいたい1” などと書いているのは,(この文献によると)これらが正確な「数」に対応しているのではないらしいという意味で,これらの単語は,1, 2, ・・・ のような「数」に対応する言葉(数詞)ではなく,あくまでそれに近いものでしかないのだそうです。 英語でこれに似た使われ方をする言葉として,著者の Gordon さん(コロンビア大学(行動学))は,"a couple of 〜" という言い方を挙げています。 "couple" は本来「2」に対応すべき言葉のはずですが,誰かに "a couple of ××" を持ってきてくれと頼んで,(2つではなく)3つや4つの××を持って来られても,特に「不正確だ」とは思われない・・・というわけで,そのようなラフな内容を示す言葉として,例えば「イ」は「1を典型とする少ない数」を表わすというふうに理解されます。 要するに,ピラハー語には,1つ2つ3つ・・・と数を順に数えるときに使うべき言葉がないということになるわけです。

 ところで,余談ですが,ピラハー語は,現在知られている世界の言語の中で,基本となる音素の数が最も少ないものの1つだそうです。 ちなみに,一番多い言語はアフリカにあり,日本語は比較的音素の少ない方に属します。 植民地的な支配の影響を除いて現地語だけを比較するなら,大まかに言って,アフリカを出発点に東に向かって音素の数が少なくなっていく(音素の点で言えば単純化していく)のだそうで,これは,人類がアフリカに登場してそこから世界に広まっていった道筋と符合するものと考えられています。(この辺の言語間の比較研究の状況については,例えば The IHT Online のこの記事などで解説されています。)

 このような言葉を持つピラハー族の人7人を被験者にして,魚の写真・棒・ナッツなどを使い,同数であるかを判定させるテスト実験(「マッチング課題」というらしい)を行ないました。 すると,判定する対象の数が3以上になると(対象物が何であっても)同数だと判定するのに苦労していた・・・のだそうです。 また,彼等の成績は,数が増加するに従って,より悪くなった(きれいな相関が見られる)とも報告されています。

 さて,この実験結果は何を意味するのか? Gordon さんは,ピラハー語には根本的に「(離散的な整数としての)数」の概念を示すものがなく,これは言語間が不整合(incommensurate)であることを示す例だと言います。 ここでいう「整合性」は「翻訳可能性」とでもいうべき意味で,言語Aの中の言葉を全て言語Bの言葉に置き換えることができること,対応する単語がない場合でも,言語Aの持つ任意の言葉を言語Bで説明可能であることを「整合性がある(commensurate)」状態と考えて,それが「ない」と言っているわけです。
 そこまでは「なるほど,そうかな」と思わせられるのですが,どうやら彼の主張の根幹は,そこから更に進んで,ピラハー族の人々には「数量の概念」そのものがなく,これは明らかに言語が思考を規定していること(linguistic determinism)を示しているのだ・・・ということのようで,ここまで来ると,「この実験でそこまで言っていいのかな?」とちょっと首を傾げてしまいます。 ピラハー族の被験者が実験で与えられた課題にまごついているという描写も加えて判断するに,彼らの文化に「数を数える」という部分が欠落しているというのはどうやら正しいように思えますが,それを,思考(ここでは,単純・複雑を問わず「脳内の情報処理の働き」を広い意味で「思考」と捉えている)が制限されていることに短絡的に結びつけていいのだろうか?

 この論文に対する反響は「今日の Nature」で既に採りあげられており,やはり賛否両論あるようです。 この反響記事では,前半で「ヒトはもともと数を認識する固有の能力を持っている」とする立場からのコメント,後半で「ヒトは,極少ない数を越えて数える固有の能力を欠いている」とする立場からのコメントが紹介されています。
 後者は,“数える” という観念はもともと人間にはなくて,言語も含めた文化の中で後天的に得られるのだという主張に繋がるように思えます。 この説に直接対応するものではなさそうですが,人間の短期記憶の容量はそれほど大きくないことを示す実験結果もあり,ここで紹介されている実験では,例えばカード上に並べられた有色の点の情報を記憶する能力について調べたようですが,初めて接する情報の場合,一瞬見せられるだけで記憶できるのはせいぜい4つくらいなのだそうです(孫引きによる情報なので,誤解しているかもしれません。 時間が出来たら原典をあたってみたいと思います。 なお,一般的な話としては,情報単位(chunk)にして7±2(=魔法の数7)が短期記憶の容量の上限と言われているようです(→例えば,海保博之教授(筑波大・認知心理学)による記事を参照))。 これらを結びつけると,“数える文化” のない状況では,2つの集合を見たときに構成要素の数が同じであるかどうかを判断するのは,扱う数がちょっと増えただけでとても困難な作業になるだろうと予想されるわけで,ピラハー族の実験はこのことを端的に示していると解釈されます。 実際,“数える文化” を持つ我々だって,例えば 20 個のものと 21 個のものをいきなり1秒間だけ見せられて,個数の違いをハッキリ認識できるかと言われれば,かなり自信がないわけで,“数える行為なしでは,違いが認識できる限界の個数はかなり小さくなる” と言われると,そうかもしれないと思ったりします。 ところが,ピラハー族の被験者も,対象物の集合を見せられる時間が短くなると成績が明らかに落ちていると報告されており,そうなると,今回の実験結果をもって「彼らは全く数えていない」と言い切って良いのか,どうもまだ疑問符がつくような気がします。
 この疑問符をますます大きくするのが,記事前半で,ヒトが「すべての数をイメージする固有で非言語的な能力を所有して」いると主張する研究者のコメントです。 彼は,ピラハー族の被験者は数を認識する能力がないのではなく,「一つのアイテムの量が正確に別のものと等しいという事が、単に認識出来ない(中略)『一致課題』に関して問題を抱えている」だけなのだという解釈を示していますが,上で述べた記事後半の考え方だって “ヒトはそもそも「一致課題」に関して問題を抱えている” ということに繋がっているようにも思えるわけで,両者はスタート地点が違うだけで,結局この実験については同じ解釈に至っているのではないか? …などと思えてきます。
 そうすると,結局,ピラハー族に対する今回の実験では,数の認識に関するこれらの説の可否に何がしかの明確な根拠を与えることは出来ないということになり,研究の価値としては,あまり大きなものではないと言わざるを得ません。

 なにしろ専門家でないため,使われている概念の定義があいまいなこともあって,考え始めるとだんだんわけが分からなくなって来るんですが,恐らく,今回の研究はこうした議論が再燃するきっかけにはなるものの,(はじめの方で書いたように)何らかの結論を与えるものではなく,その位置づけを正しく行なうには,細部まで論点を整理して更に検討を進めることが必要なのでしょう。


 冒頭でも書きましたが,門外漢の僕がこの研究に興味を感じた理由は,むしろ,人類学・民俗学的な面にありました。 科学・経済など,現代の人間の活動の極めて大きな部分が,“数を数える” ことの上に立脚していると思えるわけで,僕たちにとっては基本的と思えるこの営みを有していない人々や言語があるというのは,そのこと自体,驚異的なことです。 複数の魚の写真を見せられたときのピラハー族の人々の情報認識とは一体どのようなものなのでしょう。 言語と思考の問題についても,より説得力のある実験デザインを伴った研究が待たれます。 同時に,まだまだ世界は広い・・・人類の持つ多様性に改めて想いを馳せないではいられません。

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夢日記をつけたい?

 以前にも紹介したことのある渡辺千賀さんの BLOG "On Off and Beyond" から,「夢と錯乱」およびその後編「夢と錯乱2」,いや〜,相変わらず楽しい話です。 特に前編の方,そんなにいろいろ妙な夢が見られたらオモシロイに違いない。 夢というものに興味も出るだろうし,夢日記をつけようかという気にもなるでしょう。
 かくいう僕は,夢は滅多に見ない方です。 いや,見てるんだろうけど,全く覚えてないんですね。

 妙な夢を全く見たことがないかというと,さすがにそういうことはなく,記憶に残っている中での代表作(というのだろうか?)というと,小学校中学年くらいの頃に見たヤツがあります。 実家の裏側にある山が突如大噴火し始めて,降り注ぐ熔岩や,流れてくる熔岩・火山灰で,そこらじゅう火の海になり,町じゅうの人が大騒ぎで逃げまどう・・・という一大スペクタクル巨編でした。 雨あられと降り注ぐ噴火物の中,家族と一緒に避難していく途中では,“火の手がいよいよ目前まで迫り,周囲の人は『早く避難を!』と勧めるが,敢えて避難せず,自分が人生を過ごした家と運命を共にしようと決断する老人” …なんていう感動エピソードも挿入されていたりして,小学3年かそこらのガキの脳が作ったにしてはなかなか良くできた(?)話でした。 起きた後,自分が見た夢に我ながら感動したりしたのを覚えてます。
 残念なことに,これ以降,“制作費ン十億” 的なスペクタクルにはなかなか縁がなくなってしまいました。 渡辺千賀さんのような人の話を聞くと,人生の楽しみの1つを失っているようで,ちょっと悔しい。 でも,しょっちゅう悪夢で起こされていたりしたら,せっかくの安らぎの時間が台無しっていう気もしないでもありません(って,そんなに悪夢ばっかり見るワケじゃないだろうけど (^^; )。

 ということで,「夢日記をつけるといい」とか「見たい夢を見よう」なんて言われても,そもそも夢を見ないんだから全然その気になれないんですが,これを読んでる方で,オモシロイ夢を見る方,いかがですか,夢日記。 ついでにマイ傑作選を教えてもらえるとなおウレシイです。

 ところで,後編で紹介されてる Allan Hobson 教授の学説は,なかなか興味深く,納得する面もないではないですが,なんか「お前はクリエイティヴィティがないんだ」と言われてるみたいで,あんまりウレシクないので,まだ仮説らしいのをいいことに「保留!」ということにしておきます。(^^;

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