HIV否定論と南アフリカ

 以前から,ネット上の幾つかのサイトで,南アフリカ共和国(以下,南ア)の Thabo Mbeki 大統領が,ヒト免疫不全ウイルス(HIV)が後天性免疫不全症候群(AIDS)の原因であることを否定し,HIV 感染対策を(事実上)遅らせているという話を目にしており,ちょっと気になっていました。
 
 で,気になっていたなどと言いながら,実のところ,特に調べたりはしていなかったわけなんですが,最近になって,反進化論関連の詳細なウォッチを続けている「忘却からの帰還」で「AIDS再評価運動」に関するまとまった論文が採り上げられたので,紹介しておきたいと思います:

「再評価運動」というと“なんのこっちゃ!?”ですが,読めば分かるとおり,要するに,AIDS が HIV によるものであることを否定する人たちの運動のことであり,Kumicitさんが書いているとおり「HIV否定論」と呼ぶほうが分かりやすいように思います。
 
 なお,「忘却からの帰還」でこの件が採り上げられるのはこれが最初ではなく,冒頭で書いた南アについても詳しい記事があります。 興味のあるかたは,こちらもぜひ:

 う〜〜む,それにしても,読めば読むほど困惑させられる問題です。
 もちろん,日本において「HIV否定論」が広く受け入れられることはないでしょう。 これを受け入れることは,例えば「薬害エイズ問題」の存在自体を根底から否定することになるわけですから。 (逆に言えば……あまりに皮肉な見方かも知れませんが……あのような不幸な出来事があったからこそ,我々は「HIV否定論」のようなものに対して冷静な対処が出来る,とも言えるのかもしれません。)
 
 それにしても,例えば「社会実情データ図録」のこの記事でも示されているとおり,南アにおける AIDS 感染率は世界でも有数の高さであり,まさに「AIDS 対策 待ったなし」の状況にあります。 そのような国で,国のトップの指揮によって堂々と,まともな対策にむしろ逆行するような方向性が打ち出されている……という事実は,なんか,今の時代の出来事のようには思えない。 全くもって「困惑する状況」としか言いようがありません。
 国際世論の反発を受けて,Mbeki大統領も,最近になってAIDS 対策について若干軌道修正したようですが,そうは言っても基本的なスタンスは変わっていないようですから,今後どうなるか,気になるところではあります。

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米国産牛肉輸入問題をめぐる奇妙な状況

 もう少しドキュメント類にちゃんと目を通してからと思っていたんですが,どうもそういうヒマが作れるのか微妙な情勢なので,見切り発車的に書いちゃいます。

 米国産牛肉の輸入解禁が事実上秒読み段階に入ったかのような報道が幾つかなされているようです。 しかし,現実には何かの問題が解決したわけでもなんでもなく,最近の報道には,なにか「輸入解禁」のための “空気づくり” 的な恣意的な要素を感じないでもありません。 まあ,そのことを言ってしまえば,そもそも国内で BSE が見つかったときには「食の安全」を求めて大騒ぎしたのに,それに比べて,米国産牛肉輸入差し止めのときは,安全を求めるトーンよりもむしろ「牛丼がなくなってサビシイ」的な報道ばかりが目立ったという違和感も感じるわけですが。

 昨年末あたりからの報道で受ける印象から,食品安全委員会は輸入再開という政治的な決着を仕方ないと(消極的にしろ)容認していて,そちらの方向に国内世論を導くことも織り込み済みなのかと,僕は勝手に思っていました(科学者が参加しているだろうに,懐柔されてるのかな・・・なんて。 特に,パブリック・コメントを事実上無視したような扱いで済ませたことで,その印象が強まっていました)。 ところが,ちょっと情報を集めてみると,食品安全委員会プリオン専門調査会座長代理の金子清俊東京医大教授が先日辞意を表明,品川森一動物衛生研究所プリオン病研究センター長も辞意を表明していたほか,山内一也東大名誉教授も「(行政に)ある意味で利用された」という発言をしているなど,食品安全委員会をめぐる事態は,以前からかなり紛糾していることが分かります。
 個人的には,こうした流れ,特に金子氏の辞意表明などは,科学者・専門家としてのスジを通していると感じられ,高く評価したいと思います。 もちろん,その一方で,国の「先に結論ありき」の政策決定と戦って欲しいという気持ちもありますが。

 「20ヶ月以下の牛は検査対象外にする」という件も,どうも「20ヶ月」という数字がひとり歩きして「20ヶ月以下の牛は安全」というような印象が与えられています。 もちろん「“検査対象外”=“安全”」ではないですし,どうやら(こういう誤解を恐れてか)20ヶ月という数字を出すのが妥当かどうかは専門家の中でも意見が分かれている上,20ヶ月以下の検査をやめてもリスクの上昇はごく小さい範囲に留まるという話自体(他にもいろいろな施策がとられている)国内限定の話であって,例えば米国まで一般化できるわけではないというのが実情です(更に言えば,日本は全頭検査しているから万全などと思われがちですが,実は西欧諸国に比べて緩い見解になっている部分もあります)。

 総じて,現時点では,米国産牛肉輸入再開になった場合,日本国内における BSE の感染リスクは「明らかに増大する」と言わざるを得ない・・・と僕は理解しています。 その増大の程度がどの程度なのか,僕にはちょっと分からないわけで,ここは,あまり単純化せずに専門家の話を丹念に聴くことが重要ではないかと思います。 もちろん,リスクを見込んでなおかつ輸入再開を重視するという(米国重視・国民軽視ともいえる)行政スタンスもあり得ますが,更にズルズル緩和政策が進むと日本は EU 諸国よりも BSE 感染リスクの高い国になってしまうかもしれず,それは何としても避けたいところです。
 BSE は潜伏期間が長いので,すぐに影響が出るわけではない(そこがまたクセモノですが)でしょうが,要するに,ここで行政側が取るリスクの程度によっては何年か後に感染者が出てくることもあり得る・・・ということになりますね。
 専門委員会が何らかの判断を示さないわけにはいかないのは当然ですが,その判断への道筋は可能な限り科学的であって欲しいと願わずにはいられません。

 ところで,吉野家なんかに行くと輸入再開への署名運動なんかが展開されていますが,仮に今の流れのまま輸入再開の運びになったとして,食品産業はこのリスク上昇の件をどのように消費者に伝えるのでしょうか? 行政サイドの説明は矛盾が多いことが既に指摘されているわけなので,それをただ垂れ流したのでは,納得が得られるとはとても思えないんですが。 実際,すき家の社長は吉野家の方向に異を唱えているという報道もあります。 ・・・外食依存度の高い僕としては,外食産業の動向は特に気になるところです。
 
 
 ・・・さて,この記事がミスリードに終わってしまわないよう,関連記事へのリンクを幾つか示しておきましょう。 まず,農業情報研究所狂牛病のページは,各種解説記事やニュースを集め,落ち着いたトーンでそれらを分析していて,僕が知る中では一番全体の把握に役立つサイトと思います。 それから,Speak EasyBSE&食と感染症 つぶやきブログは,それよりも批判的な強い口調が基本的なトーンではありますが,その点を多少割り引いたとしても,議事録など各種情報へのリンクも含め参考になるでしょう。 更に,以前紹介した Mangiare!Cantare!Pensare!(平川秀幸研究室blog)でも,この件について繰り返し言及されています(最近だと,例えばこの記事この記事など)。 こういったサイトを読むと,この問題を,少ない情報から単純化して扱うことが危険であることを感じさせられます。
 
 
 
[追記(2007/01/30)]
 この件ですが,その後いろいろな意見に接した結果,リスクの変化という観点だけなら上記の意見は変わらないものの,リスクの絶対値(とでもいうべきもの)は,結局のところ十分小さい(と現時点では考えていい)のではないかと思うようになりました。 人によってはこれを「変節した」と捉えるかもしれないし,ある意味そういうことになるのかもと自分でも思ったりします。 しかも,これも現時点での判断に過ぎないので,新たな論点が出てくればまた変わっていくのかも知れないです。
 で,言いわけと受け取る人もいるかもしれませんが,我々は得られた情報の範囲で時々刻々判断していかなければいけないので,新たな情報を得たり,更に議論を深めたりする中で判断が変わること自体はむしろ自然なことだろうと思っています。
 現時点での個人的な反省としては,変化ばかりに着目するのではなく,「問題にしているものが,実際にどの程度の値(量)なのか」といったところの見積もり(数値)を忘れて議論してはいけないな〜,ということです。
 たまたま今日,この記事のことを思い出したので,一応追記しておきます。

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日本テレビ問題とネット世代論

 またしても完全に周回遅れという感じではありますが、“切込隊長BLOG(ブログ) 〜俺様キングダム” の記事「日本テレビ放送網有価証券報告書訂正問題」、それから、CNET Japan にある梅田望夫さんの BLOG で間欠的に展開されている「“ネット世代” 論」(例えばこの記事とかこの記事とか)、・・・これらは異なる事象を扱っていながら、我々の社会(とりわけ日本)が今後どういう方向に進んでいくのか、その(今、起こりつつある)変化のベクトルを読み取ろうとする意思のような面で、共通するものを感じます。

 切込隊長は、先ごろ報道された、読売新聞社が実質保有している日本テレビ放送網の株式の名義が渡辺恒雄氏のものになっていた件を皮切りに論を起こします。 はじめに、今回の件が発覚→事件化したことが「社会から退きつつある権力者に対して等しく行われている通過儀礼だと見ることもできる」という一定の解釈を示し、更に

驚くほど庶民に対して人気を持たない渡辺氏だったが、彼は戦後政治という一連のシステムと並存している。言い換えるならば、渡辺氏は日本を代表する権力者であり、同時に戦後政治を左右する重要な知識人なのだ。だから、現在の日本社会の枠組みが嫌いであるか、被害を蒙ったと感じる人たちにとって渡辺氏は旧弊の代表格であり、彼の権益に繋がるものは何でも憎いと思ってそれほど不思議はない。

と、渡辺氏に対する批判は、現在日本社会に起こりつつある変化との相互作用によって、より大きなものになっているという見方を示します。 そして、今回の件だけでなく、前後して起こっている政界・財界のスキャンダルには「勢いを失いつつある組織のトップに君臨していた権力者が、従業員や市場からの告発によって穴を開けられ、一気にスキャンダル化し影響力を失っていく」という共通の構図があり、しかも、

告発が点火させたあと爆弾に届くまでの導火線が短くなっている気がするのだ。そして、炸裂する爆弾の性質が明らかにバブル前後までの日本社会のそれとは違う。権力者がきちんと権力を行使しているにもかかわらず逃げ切れないというタイプの代物だ。

このことは、「これら日本の権力者たちの『グリップ力』とでも言うべきものが弱まっている」ことだけを示しているのではなく、「グリップされる側の変容がセットで進行している」のではないかという解釈を述べます。

 最近思うのは、紛れもなくこの社会は戦後社会というものから、別のものへと移行しつつある端境期に来たのかもしれないということである。戦後の権力者が、あるいはそのクローンがシステムの限界まで引っ張ったときに起きる一瞬の臨界点、それが連続したあとの着地を考えるべきフェーズに来ているのかもしれない。


 示唆に富む論考なので詳しくは原文を読んで欲しいのですが、一方、“ネット世代” 論は、こうした変化に一定の解釈を与えようとする試みと見ることも出来るような気がします。 僕個人としては世代論というのは好みでない(メリットもあるかもしれないけど、より大きなデメリットも感じる)ので、ざっと紹介するに留め、興味のある方は原文をあたって欲しいのですが、「ゲーマー世代の若者といかに付き合うか」では、梅田さんがことあるごとに述べているネット世代論に類似したものとして「ゲーマー世代」論を紹介し、その特徴を以下のようにまとめています。

(1) ゲーマー世代は、他社や他者を「(ゲームの)プレイヤー」と見なす。
(2) ゲーマー世代は、(ブーマー世代に比べて)、より競争的で、「勝つ」ことへの執着が強い。
(3) ゲーマー世代は、想像し得るどんな問題を解くことに対しても、より楽観的で断固としている。
(4) それは、ゲーマー世代が、成功にたどりつく解(行動の組み合わせ)が常に存在すると信じているからだ。
(5) そのことが、ゲーマー世代を、ものすごく創造的な方向に動かしている。
(6) ゲーマー世代は、企業のリーダーに対して不審を抱いている。
(7) ゲーム世界は階層構造を重視しないし、ゲーマー世代は、自らに対してものすごく自信たっぷりなのだ。
(8) 起業家のように、ゲーマー世代は、成功・失敗は、自分の能力次第と考える。
(9) ゲーマー世代は、(ブーマー世代と比べて)、リスクを取ることになじんでいるが、無謀ではない。

これだけだと「ゲーマー世代」というのはなかなか見所のある奴らだなという感じなのですが、更に、この記事へのトラックバックを紹介した記事「ゲーマー世代は上の世代から見ると『異常に生意気』?」では

・(1)と(6)から「他社や他者を敵キャラと味方キャラに分類して理解する」と統合したいところです。(略)
・勝敗に執着した結果として「敗者に対して断固で容赦ない態度を採る」と言う傾向も挙げられそうです。(略)
・(4)は(3)に対してだけでなく(7)にも影響しているでしょう。「『こうすれば上手くいくはず』と言う論理的結論に絶対的な自信がある」と言うことです。(略)

という考察に続く(紹介したトラックバック記事の)結論として、

そして、この「Unforgettable Days」氏の結論は、
「この「敵/味方」と言う二項分類的発想が、ゲーマー世代・ネット世代を特徴付ける鍵と言えそうです。結果、「妥協」や「落とし処」と言う考えが生まれにくいのでしょう。」

となり、「自分の論理を絶対的な解答と信じる様子」、「自分が勝利すると言う自信・楽観論」、「敵への容赦ない対応」といった特徴を理解すると、「ゲーマー世代」への理解が深まると主張される。

梅田さんは、こうした特徴を持った世代が社会の中心になっていくことを考えると、今後、日本社会のある部分は「アメリカのビジネス競争社会に似てくる」のではないかと(そのことの是非は敢えて (?) 問わずに)述べています。


 う〜〜ん・・・と僕は思うのです。 前半で紹介したような社会の変容が、後半で紹介したような価値観とダイレクトに結びつくのなら(これらの議論の範囲内ではかなりうまく結びつくように見えてしまうわけですが)、そこに現れる社会は果たして「住みよい」ものなのだろうか? ・・・この疑問は、現状を維持したいなどというような意味ではなく、変化そのものは起こるべきだろうけど、まぁぶっちゃけた話、出来るだけいい場所(あるいはそのそば)に行きたいわけで、ではその「いい場所」って何だろう?という意味です。 (「○○主義」のようなイデオロギーのことを問題にしてるのではありません、念のため。)

 更に言うなら、現代社会においては、人類が抱える問題の少なからぬ部分が単独の地域・国で解決できなくなりつつあり(環境問題なんかが典型かもしれませんが)、今後、そうした問題の解決策を考えるために国際的な協力・調整が必須になるであろう(し、実際なっている)ことは明らかなように思えます。 そこでは、もちろん自説をしっかり主張して他を説得する能力も必要ですが、それと共に、多様な主張の存在を認めつつ(それらの存在を前提に)、それら主張間をうまく調整ししかも事の本質を失わないような解を導き出す能力が、これまで以上に重要になると思うのです。 そういった方向性と上記の “ゲーマー世代” とやらの特質を比較すると、そのような時代の要請とは裏腹というか、ちょっとマズイ方向に進んでいるように思えてしまう。
 まあ、こういう世代論というのはある面で不安を感じさせるように出来ているものだし、実際には、時代が求める能力を持つ者は必ず登場するものだとも思うのですが、その一方で、米国の動向1つ取っても、そうそう楽観的になってもいられない気もします。 月並みではありますが、現代に生きる者として、悲観にも楽観にも陥らず、かつ他人任せにもならないように考えていくことが必要だということなのでしょう。

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もしアメリカがイラクだったら

 「海外ボツ!News」経由で知ったのですが、ミシガン大学の Juan Cole 教授(歴史学)が運営する中東問題の BLOG "Informed Comment" の中の記事 "If America were Iraq, What would it be Like?" が話題になっています。
 別の BLOG "Baghdad Burning" (リンクは日本語版)で紹介されているため、既に日本語訳もあるんですが、何となく、「海外ボツ!News」さんの訳と合わせて、自分バージョンの訳を作ってみました。 別に今ある日本語訳が気に入らなかったわけではなく、作りかけたところで日本語訳の存在を知ったので、せっかくだからそれも合わせて参考にしつつ作業して、せっかく作ったから自分のところでコッソリ公開しちゃおう・・というわけです。
 アメリカの国内事情を知らずに訳してるので、自分でも訳文の内容が分かってないところが結構あったりします。(^^; おかしなところは指摘してくれるとウレシイです。

 なお、やっぱり原文の方が美しい散文になっているので、興味のある方は原文をあたってみてください。



もしアメリカがイラクだったら,どんな感じだろうか?


ブッシュ大統領は火曜日(*) に、イラク国民はイラクの状況に関する悲観主義が間違いだったことを証明つつあると述べ、イラクの状況は好転しているとほのめかした。
 (* 訳注: 9月21日)

もし、アメリカが今のイラクのような状況だったら、どんな感じだろうか? アメリカの人口はイラクの 11倍以上だから、統計の数字も 11倍して考えるべきだろう。

先週、イラクでは暴力によって 300人が殺された。 11倍すると 3300人。 もし、3300人のアメリカ人が先週、車爆弾で、手榴弾やロケット弾の攻撃で、機関銃の乱射で、空爆で、殺されたらどうだろうか? この数は 9.11 の犠牲者の数より多いのだ。 そして、もしアメリカがイラクだったら、それが毎週、毎月続くのだ。

もし、その犠牲者を出しているのが首都ワシントンをはじめとして全米に広がっていたら、それも、主な場所が南部/北部の境界線より北、ボストン・ミネアポリス・ソルトレイクシティ・サンフランシスコなどだったら、どうだろうか?

もし、ホワイトハウスや官庁のビルが定常的に追撃砲で攻撃されていたら、どうだろうか? 国務省やホワイトハウスやペンタゴンの職員たちが、誰もビルの外へ出ようとせず、クリスタルシティやアレキサンドリア(**) へさえも危なくて行けないのだとしたら、どうだろうか?
 (** 訳注: どちらもワシントン近くの町)

もし、大手の放送局や新聞の記者たちが皆、ワシントンやニューヨークの5つ星ホテルに足止めされて、市街を2〜3ブロック歩くこともままならず、オクラホマ シティやセントルイスの様子を知るにも現地通信員に頼るしかなかったら、どうだろうか? 勇気を出して中西部まで行こうにも、軍や州兵の従軍記者として行く以外にないとしたら,どうだろうか?

イラクには共同戦線を張るゲリラがおよそ2万5千人いると言われている。もし、27万5千人の民兵が、機関銃やライフル(アメリカでは合法なのだ!)やRPG(***) や追撃砲で武装し、全米の都市の危険地帯に潜伏しているとしたら、どうだろうか? こうした連中がシアトル・ポートランド・サンフランシスコ・ソルトレークシティ・ラスヴェガス・デンヴァー・オマハを完全に勢力下に置き、地元警察も軍も町に入れない状態だとしたら、どうだろうか?
 (*** 訳注: ロケット推進式榴弾)

もし、去年1年で、国務大臣(Aqilah Hashemi)、大統領(Izzedine Salim)、司法大臣(Muhammad Baqir al-Hakim)がみんな暗殺されたら、どうだろうか?

もし、殺人・誘拐・盗み・カージャックなど、大都市での年間件数と同じくらいの数の犯罪の波が、アメリカの全ての町を襲ったら、どうだろうか?

もし、モンタナ州ビリングズ、ミシガン州フリント、ロサンジェルスのワッツ地区、フィラデルフィア、ワシントンのアナコスティア地区などをはじめとした都市部を、空軍が定期的に(毎日とか毎週ということだ)空爆したら、どうだろうか? 空軍が狙っているのは “犯罪集団” の “隠れ家” だが、巻き添えに大勢の子供や老人たちを殺してしまうのだとしたら?

もし、ことあるごとに、米陸軍がヴァージニア ビーチを包囲して、クリスチャンソルジャーの武装メンバーを何百人も殺したとしたら、どうだろうか? クリスチャンソルジャー民兵全隊がアーリントン墓地に立てこもっていて、そこを米空軍が毎日爆撃し、何千もの墓を破壊してベトナム メモリアルも粉々になったとしたら、どうだろうか? もし、米陸軍が、ならず者組織ティモシー マクヴェイ追悼旅団を攻撃するためにワシントン大聖堂を破壊しようとし、それを止めるために、全米キリスト教会協議会が大聖堂前で大集会をしようと信者に呼びかけたら、どうだろうか?

もし、民間航空の国内便が全く飛んでいなかったら、どうだろうか? 道路が非常に危険だったら、どうだろうか? それも、リッチモンドからワシントンに向かう I-95 や、ボストンへ向かう I-95 ・ I-91 などの幹線高速道路が特に危険だったら? 800 km に及ぶ I-95 のどこを走っていても、カージャック・誘拐・機関銃の襲撃などにいつ遭うか分からないのだ。

もし、1日に 10時間しか(いや、もっと短い時間のことも多い)電気が通じなかったとしたら、どうだろうか? 通じたとしても突然停電し,工場は運転停止、夏真っ盛りのヒューストンやマイアミでエアコンが急に止まってしまうとしたら? もし、アラスカのパイプラインが爆撃されて、1カ月間操業停止したら、どうだろうか? もし、失業率が 40% 付近をうろついていたら、どうだろうか?

もし、ルビーリッジの退役軍人民兵団によるテロやオクラホマ シティの爆破事件を口実に、こんな危険な時代には強い国家が必要だと政府が突っ走り始めたら、どうだろうか?

もし、自治体の選挙が中止され、新 “大統領” の取り巻き連中が “州知事” として密かに州庁舎に着任したら、どうだろうか? この知事たちの何人か(喩えて言うならモンタナ州やワイオミング州の知事)が就任直後に暗殺されたり、ゲリラに子供を誘拐されて辞任したとしたら、どうだろうか?

もし、こんな状況にあるのに、EUの指導者たちに、米国市民は悲観主義に打ち勝った、自由と民主主義の実現はあと一歩だ、と言われたら、どんな感じがするだろうか?


  (Juan Cole 2004年 9月22日 午前 6時53分26秒投稿)



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