メディアの呼び起こす感情

 「医学都市伝説」という有名サイトがあり,愛読してます。 書いてらっしゃるのは精神科医を本業とする方で,医療系を中心に,世間に広く流布している「都市伝説(単なる「うわさ」よりも,真実味を伴って語られているもの・・・という感じでしょうか)」を紹介して,時にはそれに関するデータを示したりしながら,論評を加えるという形式になっています。
 このサイトのメインコンテンツである「医学都市伝説」の抜粋で構成された「死体洗いのアルバイト」という本が1年ほど前に出版されていて,最近になって,遅ればせながら買って来ました。
 いちいちつき合わせてみたわけではありませんが,基本的にはサイトに書いてある記事をほぼそのまま収録した本のようです。 とだけ書くと,「それならサイトを訪問すれば事足りるじゃないか」という気がしないでもありません(事実,amazon.co.jp なんかの書評ではそういう意見も多いようです。 僕は楽しく読みましたが。)が,個人的にちょっと面白かったのは,僕の場合だけかどうかは分からないけれど,読後の感想が,web 上で読んでたときとは微妙に違っているのです。 なにか,そのときよりもちょっとだけ「重たい感じ」になるとでも言うのでしょうか。 医療系の話なので人間の生死にかかわるエピソードも語られていたりするのですが,そういう場面では web 上での初読時よりもかなりズッシリした感動を味わうことになりました。 また,軽快な小ネタみたいな文章でも,以前感じた「軽やかさ」よりはむしろ「諧謔味」とでも言うべきものに置き換わって感じられます。
 このような感想の変化は一体どこから来るのだろう? と考えると,それはもちろん「再読である」ことの影響もあるのかも知れませんが,どうも,それ以上に「本である」ということが読み手(=僕)に微妙な影響を及ぼしているのではないかと思ったりします。 同じ「活字(的なもの)を読む」という行為に他ならないのに。 本という「物理的な体裁」や「横書きから縦書きに変わったこと」などが微妙に受け手に与える印象を変化させているのではないか?と思えるフシがあるわけですね。
 これを一般化するなら,“同じ情報でも,その情報を担うメディアによって受け手に呼び起こす感情が異なる”・・・ってなことになりますが,平たく言うならこれは結局のところ,僕達よりも上の世代の方々が言う「本を読むときは背筋が伸びる(だから本はありがたい,みたいな話につながってたりする)」的な,既にある多くの指摘とさほど変わないことになります(あまり面白くないですね (^^;)。
 日頃,特別に本をありがたがったりしているわけではない(つもりだった)ので,こうした違いを自分が実感として味わって新鮮な気分だったのだろうと,自己分析してみたりするのでした。

 さて,こういう違いというのは,異種メディアがそれぞれ本質的に内包している性質の違いなのだ・・・と(本という「物理メディア」とインターネットという「電子メディア」…みたいな対比はあくまで1つのモチーフだとして)強弁できるとちょっと面白いのかもしれないのですが,それをやろうとすると,例えば本の権威を擁護するような,ある意味古典的・権威主義的な方向に向かう以外には,相当よく考えないと,あまり説得力のある意見が構築できそうもない。 まぁ,それよりはやはり,情報を受容する側(=僕)がメディアに対して何とはなしに感じている属性を,得られた情報そのものの方に意識的/無意識的に投影していることが主要な要因であると考えるほうが,むしろ妥当なんだろうな・・・という方向に落ち着いてしまいます。
 で,後者の見方に立つなら,こうした受け取り方の違いが僕とは逆の方向(=ネットで見る情報のほうが重たく感じられる)の人がいることも,可能性としては考えられるハズですが,あんまりそういう意見は聞かないように思います。 これは本というメディアには歴史もあり,また書物にはある種の権威という属性があったということと無縁ではないでしょう。

 では,ちょっと強引だけど,僕のような感じ方は極めてフツーであり,同様な感じ方をする人が相当の割合でいると仮定するなら,その範囲(の規定の仕方)はどの程度まで拡げて考えられるのでしょう?

 単純に “本に接する機会が比較的多い人の集団” ということになるのかも知れないけど,ネットというメディアとの対比で言うなら,ネットをよく利用している人とそうでない人では違いがあるだろうと考えられます。 一見もっともらしい。 でも,そういう視点で議論しようとすると,上記の議論の流れから,僕自身は「ネットをあまり利用しない人」にカテゴライズされなければいけないことになります。 フツーの社会生活を営んでいて,そんなネット漬けな生活をしてるわけではないので,それはそれで正しいと言えないこともないし,「よく利用している」という定義づけは程度による区分けであることを示しているわけだから,「ネット利用者」を若干限定的に定義することにすれば十分成り立つ議論になりそうですが,一般的な感覚としては,こうしてネット上に文章を書いたりしてる段階で,僕を「ネットをあまり利用しない人」に分類するのでは,分類の妥当性に疑問符がつくと感じる人の方が多いかも・・・とも思えます。 それではあまり説得的な議論にならないかも。

 となると,もう少し「世代論」的なものを持ち出すべきなのか?
 世代論的な決定論は僕の好みではありませんが,「生まれたときからテレビがあった世代」と「それ以前」という区分けの仕方がよく為されるので,これと同じ発想に立って,「生まれたとき,ないし,ものごころ付いたときにはインターネットに繋がる環境があった世代」と「それ以前の世代」とを対比させると,前者では,本の情報とネットの情報とをそれほど先入観なく同列に扱えるのかもしれない・・・という推測は可能かも知れません。 僕と同じような感じ方をする集団として考えうる最大の集団はこのときの「それ以前の世代」ということになるのかな? う〜む,なんか旧人類にされたようで,あまりいい気はしないけど (^^;,まあまあ妥当な線引きなのかも。 ただ,これを採用すると,本というメディアの持つ重みは今しばらく安泰で,本メディアが新たな相対化に直面することによる変化が起こるのはもう少し先ということになりそう。

 以前にも取り上げた梅田望夫さんの BLOG の中では,インターネットの普及以後,情報リテラシーに長けた「ネット世代」とでもいうべき集団が登場しているという考えが述べられていて,ネット世代とそれ以前の世代とでは,情報に対峙するときの姿勢や,情報を処理する(多くの情報の中からより確からしい情報を選び取り,それらを自分の中に位置づけ統合する能力が想定されているようです)自己の能力への確信などの面が大きく異なっており,その違いが,行動様式にも影響を及ぼしているという議論を繰り返し行なっています。 この考え方の妥当性については,ある面で疑問を感じなくもないのですが,いやおうなしに多くの情報に晒される今の時代にあっては,それらの情報をどのように自分の中で処理するかという問題が極めて重要であり,しかも,社会に表出される各人の行動とそうした(個人レベルでの)情報処理の結果とが結びつくウェイトも従来より遙かに大きくなる・・・ということを世代論的な言い方で指摘したものだと捉えることが出来ます。 この辺の分類も「本に対して僕と同じような感じ方をする集団/しない集団」とミートする考え方かも・・・。
 
 
 
・・・などと,本の内容とは関係ないところで妄想が膨らんでいくのでした。
 
 
 
 
p.s.
ということで,オチなし・結論なしなので,何かまとまった主張を期待して(読みにくい文を)最後まで読んだ方,どうもすいません (^^;;。 今回はちょっとした思考のお遊びということで,お許しいただきたく(ぺこぺこ)。

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Steve Jobs のカリスマ性

 やや旧聞に属することですが,米Appleの Worldwide Developer Conference (WWDC 2004) において Steve Jobs が基調講演を行ないました。 その様子はあちこちに書かれているようですが,梅田望夫さんの 「梅田望夫・英語で読むITトレンド 」 の記事『ジョブズの基調講演を生で見て来た』及びその次の記事『WWDCのデモにみるジョブズ的イノベーションとリーダーシップ』,それから,「死んでしまったら私のことなど誰も話さない」さんの記事『Appleの描く世界観』・・・これらの記事は,話の内容そのものよりもむしろ,実際に Steve Jobs のプレゼンテーションを“生で見た”ことから出てくる感想が述べられていて興味深いものになっています。

 これらの記事によると,Jobs の持つカリスマ性は「聞きしに勝る」もののようで,Mac ユーザではない人でさえも Jobs のプレゼンテーション力とそれを支えるコミュニティの熱さに引き込まれていく,そのすごさの一端を垣間見ることが出来ます。

 Jobs のプレゼンテーションの特徴の1つとして,新機能などのデモを「自分で行なう」というのがあるのは僕も聞いたことがありました。 この点は,プレゼンテーションの技法として,結構重要なのではないかと僕は思っています。 プレゼンテーションにおいて何といっても大切なのは,自分に対する聴衆の集中を途切れさせないことだと,常々思っているからです。 しかしながら,これをやるには,かなり周到に準備しておくことが必要であり,準備不足では決して上手くいかないものだったりします。 この「自分でデモをする」ことの意味について,梅田望夫さんの記事の中では更に(SVJEN代表の外村仁さんのコメントとして)以下のように述べています。


視点を変えれば、社員、特にそれを開発した人たちにとっては、ジョブズが「本当に使ってくれている」ことがこの上ない喜びではないかな。世の中の多くの会社のエライヒトが、細かいことは担当任せなのとエライ違いです

つまり,Jobs 自ら新機能を使いこなしてみせることは,社内の志気を鼓舞する意味合いもある・・・というわけで,これはなるほどと思いました。 確かに,それが出来る社長というのはそうはいないような気がするし,Jobs のような求心力のあるカリスマでなくても,こういうことをやってもらえると,開発した社員としてはうれしいのではないかな。

 それから,「死んでしまったら私のことなど誰も話さない」さんの記事では,Apple の持つ魅力について触れていますが,これが非常に的を射た指摘になっているように僕には思えます。 次期OS "Tiger" の新機能の持つお洒落なユーザインターフェイス・デザインについて触れた後,


そして、そういう遊び心に共感し、喜べる人が、Macユーザとしてこの会社を支えているのだろう、ということが、会場から湧き上がる歓声・拍手などのリアクションからも伺えました。
(中略)
などというエピソードも、Appleの描く世界観、ライフスタイルに対して共感するもの同士の連帯感から生じるものだと思うので。

価格ではなく感性に対する訴求力と、それに共鳴する人々(顧客、従業員、デベロッパー)の高いロイヤルティ

という特徴を、Appleという会社から感じました。


 以前,友人が,Windows と Mac のユーザ・インターフェイスの違いについて,「Windows は“こういうときは,こう操作することになっています”という感じなのに対して,Mac は“こういうときは,こう操作するんだけど,それ以外にこうやってもいいよ”とか“こんな機能も付けてみたんだけど,もし便利だと思ったら使ってみて”という操作性の奥行き感がある。 Mac の優れた部分を言葉で説明するのが難しいのは,いわゆるスペック競争には現れない,こういった微妙なニュアンスの面での使い勝手に特長があるからだ。」というような趣旨のことを話していましたが,上記の引用部分とあわせて,Apple の製品の持つ特徴をよく表わしているように思います。

 また,Apple のイノヴェーション戦略について,梅田さんは,


アイデア段階でもそのコンセプトがわかりやすいから、あんまり深く考えていないトップが思いつきで否定したりできるタイプのイノベーションなのだ。だから、そういうタイプのイノベーションが官僚的な組織で生れると、そのコンセプトには横槍が入ってふらつきやすく、最後にはエンドユーザの心に響かない製品が往々にしてできあがる。よって、ジョブズ的イノベーションには、「何でもジョブズが決める」的な強いリーダーシップが、よくも悪くも、必要不可欠なのである。

と述べており,この点に関しては「そんなもんなのかな?」という疑問もありますが,確かにトップが思いつきで否定することによってつぶれたりつまらなくなったりということは,よく耳にすることであり,そういった横槍を入れやすい題材に関するマネジメントというのが難しい(だからこそ,ふらつきの少ないものである必要がある)というのは理解できます。
 しかし,それよりも僕が本質的に重要であると考えるのは,その前に書かれている次の指摘です。

このSpotlightとSafari RSSを眺めていて、当たり前のことながら、産業全体における競争の存在を、とても意義深く感じた。OSレベルでマイクロソフトと競争するアップルの存在は意義深いし、新しいコンビューティングパラダイムを引っさげたGoogleの華々しい登場も、IT産業全体の競争心を強く刺激している。マイクロソフトの独占を是認し、誰もがマイクロソフトに挑戦を仕掛けることなく諦めて競争をやめていたら、こうした技術革新の歩みは、今よりもうんとゆっくりとしたものとなっていただろう。

「何を当たり前のことを」というツッコミが来そうですが,それでも,この指摘が本質的であることは,多くの人がうなづくのではないかと思います。 このコンセプトこそが自由競争社会の強さの源泉であるわけですから。 ただし,(話はちょっと脱線気味になりますが)自由競争をどこまでも是認し,突き詰めることが今後も必ずしも正しく,必要なことであるのか?・・・という議論はまた別途行なう必要があると感じてもいます。

 僕自身は,会社では Windows(を使わされ),家では Mac という生活を長いこと続けているので,Apple に対して好意的な見方に偏ってしまっているという面があるのは否定できませんが,Apple には今後も生き延びて,僕らをワクワクさせて欲しいと強く願っています。

 なお,BananaBlog さんが,同じ記事+αを基に「Apple WWDC 2004 に見る Steve Jobs のカリスマ性」という記事を書いており,こちらも素晴らしいまとめになっています。

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